2007/10/09

Dennou Coil

「電脳コイル」を数話見た段階で書いたテキストを加筆修正してアップします。


サイバーパンクを世に知らしめたウィリアム・ギブソンには「ヴァーチャル・ライト」という、メガネを通して電脳世界を体感するという作品がある。ギブソンは文学的想像力を駆使して、コンピュータがガジェットとなって日常に溶け込んでいる未来を幻視した。彼の作品は数を重ねるごとにSF小説としてのインパクトを失っていき、未来を舞台に移し替えただけのピカレスク・ロマンや犯罪小説の様相を呈していった(それは小説として面白くなくなっていった、ということを意味してはいないのだが)。壮大なアイディアでうならせるタイプのSFではなく、未来社会のディティールをかつてなかったリアリティと筆力で活写するのがギブソンらしさ。いま読むと多分にマンガやアニメっぽくもあり、一方で日本をことさらエキゾチックに描き出したその世界を、子供向けアニメーションとして見事に再生・変換させたのが、磯光雄監督の「電脳コイル」だと思う。

「電脳コイル」は、欧米生まれのバタくさいサイバーパンクをドラえもんやサザエさんの住む身の丈の日常と直結させてしまう。その発想がまず斬新だ。等身大のキャラクターと、塀や電柱や路地や神社が迷路のようにうずまく昭和ノスタルジーな町。まっくろくろすけやもののけを思わせる電脳ペットやイリーガルと呼ばれる古い電脳空間に生息する怪物、あるいは主人公が姉妹という設定は「トトロ」そのもの。ジブリが看板にする安全で共同体的なイメージ群が、ここでは最先端のユビキタス社会と違和感なく接合される。ファッションやアートと共に語られることが多かったサイバーパンクは、それゆえに風化も早かったが、こんな形で嫌みなくローカライズされて再現されるとは予想もしなかった。

電柱やブロック塀やトタン屋根のある空間というのは、日本人の脳内にサブリミナルに存在する原風景だと言えるだろう。デザイナーズマンションに住んでも、ケータイを使っても、そのヴァーチャルな空間は記憶に消しがたくそこにある。過去も現在も未来も個人の記憶すらもユビキタスに偏在し、接続可能で代替可能。ネットワーク上ではアップデートもデリートも瞬時で、そこでは存在そのものが耐えられない軽さになり、一枚の写真に特別なオーラを感じるといったことが不可能になってしまう。セカイ系うんぬんを取り沙汰しなくても、大文字の世界と個の世界、マクロとミクロ、アッチとコッチがダイレクトにつながっているという感覚はもはや当たり前のものであり、「電脳コイル」はそうした時代背景を踏まえ、20数年前のサイバーパンクが先送りして見せた未来社会をリデザインしている。

そういえば、サイバーパンク隆盛の頃、「電脳」という言葉はちょっとダサくて気恥ずかしい気がしたが、あえてこの言葉を正面から使うところに、「電脳コイル」を制作する側のスタンスが感じられる。講釈はともかく、第一話の「フォーマットしてます」という巨大な壁からデンスケやオヤジといった電脳ペットが逃げるという絵ヅラが素晴らしい。未来からやってきたロボットがまったくスタイリッシュさを欠いた扁平足のネコ型だったという、ドラえもんが作り出した未来に対するお茶の間感覚。その親しみやすいルックの裏には、今さらながら優れた批評性と普遍性があったのだと改めて思う。

「電脳コイル」の描く電脳世界は、回を追うごとに都市伝説やホラーと絡めた「異界」として主人公たちと僕たち見る者に認識されていく。その皮膚感覚はとても原始的かつ生理的で抗いがたく、意識と無意識、こころとからだの間にあるグレーゾーンに真っ向から踏み込んでいる。最後に、磯光雄監督の公式サイトにあった彼の言葉を引用しよう。


子供の遊び場とフィクションの世界には通づる部分があって、親の、あるいは整合性の目の行き届かない薄暗がりにワクワクする何かが宿るような気がします。いずれも存続しにくいものになりつつあります。その意味で、「電脳コイル」は失われた風景、失われたジャンルを扱っているのだと自分では考えています。これは企画の一番初めから変わっていない気持ちです。ちょっとだけささやかな抵抗を続けていこうと思います。(磯光雄)

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