2005/07/31
Lost In Translation
ロスト・イン・トランスレーション: ソフィア・コッポラ
ソフィア・コッポラは食わず嫌いだった。前作も見てなかった。90年代を謳歌したスタイル・カルチャーの中で影響力を持つ人物という程度の認識だった。ビースティー・ボーイズは大好きだけどミルク・フェッドやガーリーは隣の出来事だった。そんな僕が彼女に関するいろんな評価を反古(ほご)にしてこの映画を見たら、意外にも瑞々しい佳作だった。
お互いを理解し合うのは困難だということ、ディスコミュニケーションのカタチをうまく描いていると思う。スカーレットは最終的に恋に落ちるわけではないから(それをも拒絶してるから)、これはラブストーリーですらない。何かが始まったり収束したりというわかりやすいドラマはない。ほのかに甘く切ないトーンに騙されてはいけない。
異郷での出会いと別れという点で、上海を未来都市のように描いたマイケル・ウィンターボトムの「CODE 46」に近い感触があるけれど、あちらは人間ドラマとしてとりこぼしてるものが多かったように思う。同じウィンターボトムの「24パーティ・ピープル」も好きになれない作品だったから、この監督とは相性が悪いのだろう。さらに遡ると、同種の傾向を持つ作品にベルトリッチの「シェルタリング・スカイ」がある。夫婦のデタッチメントを描くこの作品は、モロッコのネットリと肌にまとわりつく退廃的な空気と迷路のような街並みが今でも記憶に蘇る。ベルトリッチらしい重い郷愁が異郷で自分を見失うという設定とうまくハマっていた。
スカーレット・ヨハンソンの存在感がこの映画をグッと引き締めている。ベッドの上で横たわるお尻、口の片方を歪ませて微笑む仕草。男の監督の視点からはとらえられない女性の何でもないような魅力を引き出している。エリック・ロメールの映画を思い出したりもした。ビル・マーレイも立ってるだけで「そこにいるんだけど所在ない人」を演じられる俳優だから、2人の相性はいい。このキャスティングは成功している。
スカーレットもビルも日本人の誰とも深く交流しない(できない)。周りに霧のようなフィルターがかかってて、東京は背景に沈んでいる。彼らは東京とのリアルなコミュニケーションを拒絶している。彼らを取り巻く環境に自ら積極的に足を踏み入れることはないし、外から眺めているだけ。ゴルフ場の向こうにそびえるウスっぺらい一枚の絵のような富士山も京都も新宿の夜景もエキゾチックな観光の視点で表面をサッとなぞって終わり。ソフィア・コッポラの東京での交友録を反映したかのような東京のサブカルチャーは、誰もが指摘してるように、かなり皮肉っぽく描かれているように見える。エンドロールの後に、ヒロミックスが一瞬映るのは蛇足以外の何者でもない。
こうした冷笑的な態度に「バカにされた」と日本人が怒りを感じるのも無理はない。タランティーノが「キル・ビル」で愛すべき日本映画の記憶からどこにもない東京を捏造した熱さとは真逆だから。スカーレットはアメリカ人女優(キャメロン・ディアスがモデル)を同じように皮肉るので、特に日本人を蔑視してるというわけでもなさそうだ。そこがこの映画のとても厄介なところ。この映画には笑える箇所がいくつかあるのだけれど、自分を落として笑うのではなく、他者とのギャップを嗤うそれだから、お互いの距離を埋めて共感を生むことにつながらない。
生の希薄さ、寄りどころのなさ、傷つきやすさ(ヴァルネラビリティ)がこの映画の根底にあるライトモチーフではないだろうか。ソフィアは確信犯的にそこを突いたのではなく、自分の感じるままに撮ったら、こうなったということなのだろう。そこが多分に女性的でもある。結果的に理論武装しない生理がそのままの純度で映像になっているので、観る人によっては拒否反応を生みやすいのは理解できる。
先端的なサブカルチャーの中で浮き草のように漂い、その外側にあるものは景色として無視したり蔑視すればラクに生きられる。そんな文化エリート的な価値観は今に始まったことじゃないし、これからも続くだろう。僕にもそれは(苦い想いとして)覚えがあるけれど、個人的にはそれではもうダメだと思う。そうしたライフスタイルの貧しさや愛のなさ(まさにマイ・ブラディ・ヴァレンタイン/ケヴィン・シールズの「Loveless」?)すらも容赦なく描き出すことで、この映画はメタな文明批評になりえていると思う。反面教師的にこの映画を見ることは、僕にとってはひとつのスタディだった。
音楽はケヴィン・シールズが全面的にバックアップしている。ホテルの年増の女性シンガーが鼻歌で「ミッドナイト・オアシス」を歌うのもよかった。はっぴいえんどの「風をあつめて」をソフィアがどんな理由で選んだのかはわからない。当時、日本人にもアメリカ人にもなれない浮き草のような自分たちを「さよなら日本、さよならアメリカ」と表現した彼らの立ち位置を彼女が理解してのことだろうか? たぶんそれは深読みしすぎで、たまたま気に入っただけだろう。
ソフィア・コッポラ、ソフィアの元旦那のスパイク・ジョーンズ、ウェス・アンダーソン、ポール・トーマス・アンダーソン、トッド・ソロンズ、ハーモニー・コリン。作風は違うけど、ブラックなユーモア、醒めた態度、ミニマルな作り、体温の低さ、カタルシスに傾かない不快指数の高さ、などなど新しいジェネレーションに共通する匂いを感じる。メンタリティ的に諸手を上げて賛同するわけじゃないが、こっちは「映画」でこっちは「映画」じゃないと切り捨てるのもとてもつまらない。自分の「面白い」という価値判断や尺度をいったん保留するという態度は大事かもしれない。
0 件のコメント:
コメントを投稿