2008/02/07

阿修羅ガール

「私は一応この世界でこんな風にこの私として生きてくの」(「阿修羅ガール」)。

舞城王太郎の「阿修羅ガール」を読む。面白かったっす。と、「っす」をつけたくなる読後感。

「つーか」とかケーハクさとバカっぽさを文体で全面に押し出しながらも、コーエン兄弟や「パルプ・フィクション」を引用する作者の賢さ(ある文化圏を享受するスノッブとしての表明のようなもの)が透けて見えるし、キャラを借りて自分の屈託を語る系かなという第一印象もありつつ、気づいたら、あっという間に読み終わってしまった。

描かれてる物語自体にはそんなに面白さを感じなかった。最初は「女子高校生を主人公にした、いまっぽい口語で描かれたジュブナイルかぁ」と思ったら、ミステリの要素が出てきて、「ん、このへんから新本格?」と思ったらソッチには行かず。佐野の誘拐の話は最後まで解決されないし、綾辻行人という固有名詞がいきなり文脈なく出てきたりする。さらに、「ヘンゼルとグレーテル」ちっくな残酷メルヘン(勝手に諸星大二郎の絵で脳内変換して読んでいた)、ルパン三世の替え歌を歌うヒキコモリの猟奇殺人鬼の荒みまくったサイコ描写、とグルグルと叙述形式を変えながらも、これらが主人公アイコの臨死体験&幽体離脱体験としてつながることはわかるし、第三部でその辺はキッチリ説明されるから物語のオトし方としてはキレイにまとまっていて、見かけよりオーソドックスな構成である。すましたようにマジメにブンガクする第三部がPTA(文壇?)への釈明っぽくもあり、最後にもっとブチ切れてもよかったんではないか?という感想が出てくるのもわかる。

全部が一人称で語られるので、ユルい「叙述ミステリ」として読めなくはない。ジュブナイル、メルヘン、ミステリ・・・など、それぞれの要素を単品で見ると「弱い」。それらのミクスチャーの仕方が独特で、あえて陳腐極まりない安っぽくウスっぺらい物語を使いながら、やせた土地で突貫工事をしてるような感じが、同じ三島由紀夫賞を取ったからではないが、中原昌也を思わせる。アンチ・ロマンというか、シミュレーショニズムというか(物語の操作という点で)、「いま小説を書くとすればこういう前提でやるしかないんだぜ」という方法論を選びとってるというか。

中原に比べると、舞城の「阿修羅ガール」にはそれなりにロマンもあるし、カタルシスもある。アイコは徹頭徹尾、自分と自分に起こっている状況を観察してマトモに考えることができる人間として描かれていて、そこにブレはない。大好きな男の子にはフラれ、傍らにいるのはオタクっぽい風体で同人誌の作者のような名前の男で、決して女の子としてはシアワセではないのだが、臨死体験の後ではその状況を静かに受け入れているし、「そんなに悪くはない」とどこかで思っている。「私は一応この世界でこんな風にこの私として生きてくの」。そして、誰かを好きになって一緒に楽しく生きよう、と切に願う。この揺るぎない自己肯定、どんなに凄惨でブラックな物語をくぐり抜けても微塵もブレない「私」。そのありようが2000年代? というか、エンターテイメントである限り、このブレない「私」は過去も未来も存在し続ける。この小説はやはりカッコつきのジュブナイル、青春小説なのかもしれない。 

文体は精緻で練られていて、そこがこの小説を小説たらしめている(というか、そこだけかもしれない)。「ピンポンダッシュ」のような文体のスピード感とは裏腹に、読むにはそれなりに時間がかかる。文章の密度が濃いからだ。改行のない文体はノッてる時の村上龍みたいでもあり(ちょっとアーパーな女の子の一人称ってのがそもそもそうか)、全体に漂う寂寥感やシニシズムの焼け野原をバックに元気な女の子が快活に走り回るというのは村上春樹チルドレンの証? 解釈はどうにでもできる。

小説も基本的には「こういうものを描きたい」欲望のメディアである。すこやかな表現衝動と、巧みなセルフ・コントロール(そこに物足りなさを覚えるかどうかで、この小説の評価も変わるのだろう)。「阿修羅ガール」にはその欲望がみなぎっていて、閉塞した状況を突き抜けようとする意志を感じる。

2008/01/25

雑記

「モーニング」に隔週連載されている山田芳裕「へうげもの」第66話を読む。第65話で真の侘び数寄の道を共に歩もうと千利休と誓った弟子がこの回で秀吉に殺される。それを石田三成から知らされた千利休が見せた苦悶と怒りの表情の見開き。凄い。大げさだが内臓からワナワナと震えがこみ上げてくる感覚があった。この漫画はぶっちぎりでエモだ。最後のコマに「ロング・グッドバイ」の文字。チャンドラー/アルトマン。雑誌掲載時は最初と最後のコマにこういうシャレた言葉が挿入されている(単行本ではなくなってしまうのが残念だ)。隔週のライブ感覚。山田が考えてるのか編集の人が考えてるのか(たぶん後者?)。それにしても時代物なんてまるでアウトオブ眼中だった自分がこんなにハマってしまうとは・・。

楽器屋に行く。最近の機材事情にまったく疎くなってるので新鮮。スタントンのデザインが全体的に垢抜けていていいと思った。あとベスタックスのGUBERというプレイヤー。ハイファイ志向なのに玩具っぽいキュートなアールを起用していて、コワモテの高級オーディオのイメージをくつがえしている。ハードからソフトへ移行しているからこそ、ヒューマン・インターフェイスとしての楽器の重要度は増していくだろうし(monomeのような商品はこれから増えるだろう)、旧態依然のオーディオとデザインの関係が払拭されて、アップルがiPodを生み出したような革命が起こるのを期待したい。明るくない話題が多い音楽周辺だけれど、かつてのターンテーブルのように機材から音楽の新しい作法や流儀が生まれるのは間違いないだろうから。

昨年、自分の凝り固まった守備範囲をほぐしてくれたPerfumeの新曲「Baby cruising Love/マカロニ」を聴く。予想はしていたが、先鋭性は後退。中田ヤスタカのリリックも特にヒネったところがなく、初の(?)素直なラブソングに。アイドル歌謡としては正攻法で、ブレイク直後の第一弾としてはこれでいいのだろう。 個人的に聴き込むことはなさそうだが、街で流れてきたら素直にいい曲だと感じられるようチューニングされている模様。いっぱい稼いでまた「Polyrhythm」のようなトンガッた面白い曲を作ってください。

次回の「Radio Sound Painting」のテーマを及川氏と話し合って、「未来」で行こうということになった。特に音楽と結びつけず、身近な未来を語ろうというもの。とはいえ、あまりに漠然としているので悩む。コンビニで立ち読みした「クーリエ・ジャポン」最新号(ヴァージンのリチャード・ブランソンが宇宙飛行士の格好をしている表紙)がちょうどよく未来の特集。100年後には、地球上の生物の種は半減、言語も半分に減るだろうという記事。こういう環境の話って、自分は何もできないと偽善者面をするか、関係ないと居直るか、手数の少ないカードを渡されているもどかしさがある。映画「マイノリティ・リポート」にも協力したという未来学者ピーター・シュワルツは興味深い人物だ。「可能性を信じる者は生き残る」。アウシュビッツの収容所で生まれ、アメリカン・ドリームを体現した人に言われれば説得力がありすぎる。

「いま、ここ」の自由と不自由

孫引きになってしまうけど、引っかかったのでクリップ。紙屋研究所より。

くり返しこのサイトでも引用している、ジャーナリストの吉岡忍の指摘を思い出す。

「サブカルチャーはメインの、あるいはトータルな文化が硬直し、形式化して人々の生活実感や感受性からずれてくると、あちらこちらで噴きだし、広がっていく。メインのつまらなさ、退屈さ、権威性に気づき、そこからの疎外感を感じとった人間は、みずからの生理や感覚をたよりに動きはじめる」(吉岡『M/世界の、憂鬱な先端』p.197)

「いま、ここで生きているという生理的リアリティーは大切だが、それを背後から励ますものがない。歴史の強靭な精神につなぐものがない。ここから先へ一歩を踏みだすための楽観の根拠がない。/いまここだけの関心。スライスされた現在にしか広がっていかない意識。それは過去から解き放たれて自由だろうが、どこに向かっても、どんな速度でもはじけ飛んでいけるという意味で、やっかいなものでもある。ときとして危険でもあるだろう」(吉岡前掲書p.28)

大塚英志・大澤信亮『「ジャパニメーション」はなぜ敗れるか』


引用元は宮崎勤についての本なので、その文脈の中でこの引用文がどう使われているかはわからない。しかし、サブカルチャーとは一般的にこのように定義されるのだろう。「いま、ここ」と歴史意識をどのようにつないでいくか。

高丘親王航海記

澁澤龍彦の「高丘親王航海記」を偶然手に取り読んだ。澁澤の遺作。読んでいて「アレ?こんなに読みやすい文章だっけ?」とビックリした。とても平明で透明な日本語で、難解な感じはまったくない。そのせいか、久しぶりに小説というものを読んだのだが、スッとその世界に入っていくことができた。

高丘親王という平安時代に実在した人物が仏僧となって幼少から憧れつづけた天竺=インドへと向かう話。同じ天竺への旅といっても、多民族国家ならではの血なまぐさいダイナミズムを感じる西遊記とはまったく違う。飄々としていて、南方憧憬を色濃く漂わせながら、バタ臭くなく淡白(それが意外だなと思った大きな要因なのだった)。経験による立体物ではなく、極東に住み、机の上で文物を頼りに西欧の深奥にある摩訶不思議を訪ね歩いた澁澤龍彦の書いた、書き割りのような絵画のような幻想世界。ああ、これは日本人の書いた小説なのだと思う。

エキゾティシズムとアナクロニズムという言葉が出て来て、登場人物たちもそのことについて語り自覚している。しかし、そこに作為が透けるいやらしさはなく、なんともいえない上質なユーモアがある。エキゾティシズムとは、決してたどり着けない彼岸の夢のような、うっすらとヴェールの向こうに見え隠れするもので、実体が現れた途端、消失してしまう類いのものだ。だから、この小説はインターネット時代には成立不可能だろう(僕はいまインターネットと書いて、それがとても馴染みのない言葉のように感じたのだが、これも澁澤効果?)。高丘親王が天竺を目指しながら、そこにたどり着けないのもエキゾティシズムの夢の中にいるからで、彼はマレー半島であっけなく虎に食べられて死んでしまう。パタリア・パタタ姫の予言の通り、虎が一心同体となった彼を天竺まで運んだかどうかは定かではない。

ブックデザインが菊池信義。もうこの表紙以外はありえないだろう?というくらいのドンピシャなジャストなデザイン。鈴木成一が一世風靡する前はブックデザイナーと言えば菊池さんの独壇場の時代があった。僕は23エンヴェロープやラッセル・ミルズのような英国のデザイナーが端正で美麗なジャケットを量産していたのと同じ時代に菊池信義がいたことが誇らしく思える。

解説を書いた高橋克彦のように泣くことはできなかったが、清々しい読後感が残った。澁澤の西欧から日本へという興味の変遷については、「松岡正剛の千夜千冊『うつろ舟』澁澤龍彦」に詳しい。

2008/01/22

Anton Corbijn, Control

 ジョイ・ディヴィジョンのイアン・カーティスを描いたアントン・コービンの映画「コントロール」の試写を見に行きました。このタイトルは皮肉が効いていて、そして、映画の核心をついたタイトルです。イアンは私生活も音楽の仕事も自分の心も身体もコントロール=制御できなくなる。その結果としての自殺という終止符。痛ましいですが、映画はそれをひとつの必然として描きます。僕はMTV世代でニュー・オーダーの「Bizarre Love Triangle」のPVでときめいていたようなヤツなんで、ジョイ・ディヴィジョンは当時、少し遠い存在でした。改めて当時の息吹を忠実に再現してるかのようなこの映画で観ると、物事がシンプルだった時代がすごく羨ましくもあり、いまとの断絶を感じたりします。みんなバカをやめて賢くなって、ある種の抑止力のようなものが働いている現在。音楽もその他のカルチャーもカジュアルに生産・消費されるアイテムに成って、それは一面から見るととてもいいことだと思います。ファクトリーとマッドチェスターを描いた「24 アワー・パーティ・ピープル」はだいぶ前に見たので印象も薄れてますが、映画としての水準はそれほどでもなかった気がします(監督のマイケル・ウィンターボトムは「CODE46」も観ましたが、こちらもイマイチだった。相性が悪いのか?)。

「コントロール」は70年代末の時代の空気をひとりのミュージシャンに的を絞って描き出すことに成功していると思います。アントン・コービンは、変にアート志向に陥ることなく、また、写真家としてのキャリアをこれ見よがしにすることなく(時折、ハッとする美しい構図が現れますが、さりげなく映画に溶け込んでいます)、あくまで直球でストレートに音楽映画、青春映画、恋愛映画、その総体を作り上げていることに好感を持ちました。ギミック的な遊びもほとんどなく、催眠術をかけられたイアンの周りをカメラがグルグル回る中、台詞が音楽とシンクロするシーンにソレを感じた程度。街を歩くイアンを遠目からとらえたファーストカットから、「あ、この映画に身を任せても大丈夫だ」という思いは最後まで裏切られませんでした。対象との距離の取り方が好ましく、謙虚な姿勢を感じ取りました。

音楽の使い方は本当によくて、しつこすぎず、あっさりしすぎず、映像とのバランスやリンクの仕方もちょうどいい加減でした。セックス・ピストルズやデヴィッド・ボウイのライブでは、あえて彼らの姿を見せず演奏シーンを省略するというのも潔い。ジョイ・ディヴィジョン自身のライブのシーンは素晴らしい。彼ららしい直情的でミニマルな音が鳴りはじめた「Transmission」が演奏されるところでは浮き足立ちました(サントラには、イアンを演じたサム・ライリーらが演奏したヴァージョンが収録されています)。「Love Will Tear Us Apart」と「Isolation」が続いて流れるシーンではバンドと恋愛双方でアウェイになっていく主人公の心の動きとうまくシンクロした使われ方がされています。あとマネージャーのキャラが秀逸。こんな人いるよなぁ。トニー・ウィルソンは、ただのいかがわしい業界オヤジではなく、愛すべき人。サマンサ・モートンは美人とは思えないんだけれど演技は上手い、全体を締めています。

時代から逃れることは誰もできない(それは死から逃れられないということと同一であり)という不問律。モノクロームの贅肉を削ぎ落とした映像の中で、青臭い「若さ」がもんどりうっている。その「若さ」の様態は笑っちゃうほどノスタルジーの領域にありながら、こんな風にメディアによる回顧が可能であり、いまを生きる人にも訴求できる力がある。これはひとつの希望だなと思うのです。表面的には悲しい映画ですが、僕はとてもポジティブに受け止ることができました。

電脳コイルを見終えて

「電脳コイル」を全話観終わったのは昨年末の話なので、いまさら感想を書くのはどうかと思いつつ、前回のエントリーでかなり褒めちぎってしまった手前、やはり、落とし前として(?)書いておかないとと思います。

中盤まで僕は本当にドキドキワクワクしながら観ていたのですが、クライマックスに至る数話で熱が冷めてしまったのが正直なところです。最後の方は、散りばめられた伏線を回収するのに精一杯で、生真面目すぎるというか、中盤までの遊び心がなくなってしまったというか。異常なテンションは持続しているのですが、観てるこちらが自由に楽しめなくなるような息苦しさがありました。

アッチの世界=「古い空間」と呼ばれるサイバースペースと、それに付随するヌルやイリーガルという電脳生物、都市伝説として語られるミチコさんという存在がどのようにして生まれたのか、その謎を解くことが後半の大きなお題目なのですが、その謎解きの多くが登場人物の長台詞で語られてしまうというので、白けてしまったのです。そこはやはり、カットの積み重ねで想像力を鼓舞するアニメ本来の力を示してほしかったと思うのです。最終話ひとつ手前のエピソードでは、宮崎アニメの模範解答のような素晴らしい空中戦がクライマックスとして描かれるので(「電脳コイル」に集結したアニメーターの技術力の高さについては、改めて僕なんかが言うまでもなく)、なおさら口惜しい気がします。子供向けアニメにしては難解な設定を敷いてしまった以上、ある程度説明的になってしまうのは仕方ないのかもしれないけれど、「謎を解く」「物語の核心に迫る」という部分をもう少しエンターテイメントとして魅せてほしかったなと。

もうひとつ、重要な点として、物語はヤサコとイサコのふたりの子供に収束していくので、集団ドラマの基底としての社会を描くという部分が曖昧になってしまった気がします。これは僕が「友情」や「恋愛」をメインにしたストーリーにあまり萌えない種類の人間だというのも大きいですが、意図的な演出であることは承知の上で、最後まで子供たちの周りの大人(電脳世界を生み、世界をこのように変えてしまった原因を作った大人)の存在が希薄なまま、悪役は猫目という青年ひとりに押しつけて終わり、ではちょっと説明不足かなと思いました(これも「セカイ系」の影響下にあるのだろうか?)。その代わり、ヤサコとイサコのメンタルな変化については繊細に緻密に十全に描かれていて、特に主人公のヤサコについては、いじめっ子だった過去やイサコとイサコの兄=4423を仮想空間で取り合う(それが予期せぬ闇を作る要因になってしまった)という過去も暴露され、決して優等生の良い子ちゃんではなくリアルな子供として描かれていて、そこはとてもいいなと思いました。たぶん、「電脳コイル」を見る子供は、主人公の心の痛みと自分の心の痛みをスムーズに重ね合わせることができるのでしょう。

広げた大風呂敷を畳む、というのは「電脳コイル」に限らず難儀な問題だと思います。それは「ご都合主義」という言葉と裏表だったりするし、作家が全力を尽くして「解」を示しても、あらゆる物語に慣れ親しみ飽きてしまった現代人を納得させるのは至難の技です。一般的に見てこの作品が力作であることは疑いなく、アニメーションのクオリティも非常に高く、バーチャルとリアルの古くて新しいテーマに肉迫した意欲的な作品だっただけに、あえて苦言を呈してみました。僕のオススメのエピソードは全体のストーリーの中では外伝っぽい位置づけだった11話・12話・13話です。どれもどこか藤子不二雄を思わせる内容で(藤子不二雄のSF短編集が好きならハマるハズ)、特に12話「ダイチ、発毛ス」はある生態系の誕生から破滅までを顔に生えた毛にたとえるというユーモラスな発想の傑作。この3話のエッセンスが本編後半にも反映されていたら・・・と無いものねだりは承知で妄想したくなります。やっぱりユーモアって大事だなと。

「電脳コイル」が「エヴァ」のような90年代的なオタク・カルチャーを苗床にしながら、そこから一歩踏み出していること。つまり、否定から肯定へという転換。作者の意図は明らかで、だから、ラストもこれで正解なのです。そこは汲み取らないといけないと思います。

へうげもの

山田芳裕の「へうげもの」(現在は5巻まで刊行)を読みました。面白い漫画です。

「文武両道」とはよく言ったもので、主人公の古田織部(佐助)は、文人(茶人)と武人の間で引き裂かれている存在(古田重然 - Wikipediaを読むと、興味深い人物であることがわかります)。武が勝る群雄割拠の戦国の世なれど、趣味人=数寄者としての自分も貫きたい、そこに生まれる軋轢や葛藤、その振り子のような人生を山田芳裕は漫画の文法を駆使して深くえぐるように描いています。文人のトップである千利休、武人のトップである信長や秀吉、その間に居る古田織部。物語はこのトライアングルを中心にドライブしていく。キャラの立て方はこの漫画ならではで、過剰にデフォルメされた人物(数寄に傾く、まさにカブキ者としての信長、そこまでやるか!と思わせる業の深い権力志向の千利休は、過去に描かれた時代物のキャラの中でも出色の出来ではないかと)、そして、バロッキーな躍動感あふれる構図(得意の見開きも折々で遺憾なく発揮されている)は、山田の筆力の確かさを示しています。

僕はこの漫画の漫画ならではの漫画でしかありえない存在理由のひとつは、多用されるキャラの顔アップにあると思います。セコくて狡賢く小心者ででもどこか真っ直ぐで素直で一所懸命に生きる古田織部が見せる、「名物」の器に出会った時の喜びの顔、天下人の権謀術数の数々に直面した時の驚きの顔、謀(はかりごと)や企みを心に潜ませ口を歪ませてニヤニヤする顔。それとは対照的な、千利休の無表情。どれもが、パターン化され記号としての役割を全うしながら、その時その時で微妙なニュアンスを含み、豊かなバリエーションを生んでいます。往年の「劇画」に追随する井上雅彦のようなスタイリッシュなカッコよさとは違い、山田芳裕は時代物のど真ん中のメジャーな題材を手中にしても、どこかハズシの美学、その中心からどこまでもズレていく面白さがあり、それが「へうげもの」というタイトルを始め(各話のタイトルも存分に遊んでいて楽しい、「Just A Tea Of Us」とか「黒く塗れ」とか・・)、キャラ、ストーリー、テーマ、あらゆる細部にその美学が活きているのです。この中心からズレながらその重力圏内で独自の軌道を描く、オーソドキシーとの丁々発止が山田芳裕なのかなぁという気がします。

なんとなくでしか理解してなかった利休の「わびさび」(「渋い」という概念の誕生を描いたページにはシビれました)と信長や秀吉の派手好みな成金趣味との対立、数寄者の古田織部と無粋な野人としての家康との相容れなさ。この漫画を読むとそれらは生きていく上で避けられない戦いなのかもしれず、平たく言えばアートとビジネスやエコノミーとの相克なのでは?と思います。そういえば、原研哉の「なぜデザインなのか。」を読むと、古今東西の器や建築物の多くには細密な文様がデザインされていて、それはその時々の最先端の技術と才能と財を投入した権力を生むための装置だったワケで、階級社会から市民社会に移行してはじめて、シンプルな己を誇示しないデザインが生まれたとあります(青磁や白磁はどうなのだろう?という素朴な疑問もありますが)。原はそれを「感覚の平和」という言葉で表現しています。ある特定の階級が占有する美ではなく、あまねく人々が共有する美。安土桃山時代に限らず、この種の話は普遍的なことなのだと思います。

2007/12/10

トム・ダウド、アトランティックの舞台裏を覗く

「トム・ダウド/いとしのレイラをミックスした男」を観た。

アトランティック・レーベルのエンジニア、トム・ダウドのドキュメンタリー。映画が始まって早々に、矢継ぎ早にコード進行をミュージシャンに指示するトム・ダウドの姿が映され、卓を黙々といじる人というエンジニアに対する固定観念は破られる。アグレッシブで外向的なニューヨーカー。そんな印象だ。彼はエンジニアであると同時に、ミュージシャンと積極的にコミュニケートするプロデューサーであり、知識豊富な音楽家だった。以下、メモ。


1942年から1946年までは、コロンビア大学で原子爆弾の研究を受注され、携わる。

1947年に原子物理学者になることをあきらめ、音楽業界〜アトランティックに入る。

アーメット・アーティガンと共にアトランティックの屋台骨だったトム・ウェクスラーは元々ビルボード誌のライターで、「人種(レース)・ミュージック」という呼称をR&Bに変えた。

プロデューサーのフィル・ラモーンはトムの先輩であり良きアドバイザーだった。

トムはベースを弾ける音楽家でもあり、それまで録音レベルが小さかったベースを大きくすることに貢献した。

ダイレクト・カット、カッティング・マシンでアセテート盤に直接録音する時代で、トムは「教授」と呼ばれる老技師のアシスタントだった。

「録音とミキシングが同時だった」=編集が不可能だったと、アトランティック元社長アーメット・アーティガン。

1948〜49年にスタジオに磁気テープ(オープンリール)が導入される。

当時のレコーディング用の卓はラジオからの払い下げが多く、それらをトムが改良したカスタムだった。

トムはそれまでの扱いにくいノブ(ダイヤル式)をスライド式に変えた。ということはフェーダーを発明したのもトム!?

1950年代、誰よりも早く自宅で8トラックによる多重録音を行っていたレス・ポールという先駆者がいて、トムはスタジオで初めてアンペックスの8トラックを導入。いわゆるダビングが本格的に可能になる。(レス・ポール - Wikipediaによると、アンペックスの8トラックはレス・ポールの全面的協力で1952年に発売された)

8トラックの導入で、すぐにその場で判断する必要がなくなり、「選択」という行為が可能になった。

1967年、イギリスのジョージ・マーティンのスタジオを訪ねるが、彼らはまだ4トラックだったそう。


個人的にはマルチトラック・レコーディングの歴史をなぞるような前半が面白く、サザン・ロック、ブルース・ロックの影の立役者としてのトムを映す後半は少し退屈だった(ハイライトは「いとしのレイラ」の制作エピソードなのだろう)。原爆=マンハッタン計画との関わりは思ったよりアッサリと描かれていて残念。シンセサイザーは元より、テクノロジーをひも解いていくと軍事技術に突き当たる。トムがひとりの人間として音楽と戦争テクノロジーの両方に深く関わっていたというのは、やはり凄いことなのだ。

アトランティックの音を体現したもうひとりの男、アリフ・マーディンの姿が見れたのもうれしい(登場シーンはちょっとだが)。調べたら、2006年に亡くなっていた。憧れの人だった。ブッカー・T&MG'sの演奏、素のアレサ・フランクリンが見れる録音風景も印象に残る。映画のラストで、トムがアーヴィング・バーリンの曲をピアノで弾くのだけれど、なんと良い曲なのだろう。ラグタイムとジャズがシンプルに料理されていて洒脱。黒人音楽を大衆音楽に橋渡し=翻訳したのはモータウンとアトランティック。後者の秘密の一部を確認できた。

2007/12/08

DJ Based On Base: DJカルチャーのタイムスケール

Radio Sound Painting 12月度放送のこぼれ話です。

放送後のリラックスした雰囲気の中、DJ KIYAMAさんがなぜか披露してくれた日本で最長のDJの話。KIYAMAさんはDJ歴約30年で、六本木か新宿かというディスコ時代の二大潮流の中では六本木派に属し(渋谷や西麻布や品川埠頭はその後)、彼の先輩がおそらく最長老で37,8年、DJしているということらしいです。海外はともかく、日本ではだいたいそのくらいのタイムスケールになるのでしょう。さらに、沖縄には伝説の御年60代のDJがいるそうです。沖縄基地=ベースをベースにして、自分のレギュラーDJのハコを持っていれば、たとえ一年一回しかDJしなくても持続しているとカウントされるのでは?という話には頷いてしまいました。ベースをベースにしたベーシックな小説というのは、初期の村上龍のキャッチフレーズです。アメリカで生まれたDJの創世記はだいたい70年代、もっと遡ると50年代のラジオのディスクジョッキーに行き着くというのが通説です。しかし、実際はもっと曖昧で不確かな状態がそこここにあったのではないかと。

以前、インドープサイキックスのCDリリース当時、DJ KENSEIに取材した際(環八沿いのカフェ、D&DEPARTMENTが取材場所でした、KENSEIが多摩川の近くに住んでいた頃です)、ディスコの奥深さについて非常に面白い内容を聞けたのですが、残念ながらその原稿は諸事情によりボツになってしまいました。ディスコを通ってるかどうかでその人の出す音の説得力が違うというのは、ひとつあるのかなという気がします。ディスコというのは、酸いも甘いもひっくるめて引き受けるというか、その人の趣味やセンスうんぬんの前にまず「現場」があり、否応なく、見ず知らずのお客を踊らさせる、楽しませるという命題があるワケで、そこで鍛えられる現場感覚と、今のタコツボ的な環境で同じカルチャーに身を浸す仲間と楽しむパーティというのはやはり違ってくるのは当然です。どっちが良いか悪いかはまた別問題ですが。

OPENERS - DJ KIYAMA×SHIBUYA-FM 78.4MHz | SHIBUYA-FM

Radio Sound Painting 2007.12

12月度のプレイリストはコチラです。


Jjplvdnb - Jean Jacques Perry & Luke Vibert

ここ数年ディスコやアシッドに傾倒していたルーク・ヴァイバートと70代のジャン・ジャック・ペリーのコラボレーション。コラボやフィーチャリングにはいい加減飽き飽きしている自分でも、この組み合わせには必然を感じました。以前、ルークとギタリストのB.J.コールがコラボした作品(双方の相性がよいエキゾな佳作)は、デヴィッド・トゥープが仕掛人というか二人を引き合わせていたんだけど、今回も影の立役者がいるのだろうか。そんな余計な詮索はともかく、「Moog Acid」というタイトル通りの明快なキャラクターが刻まれた作品です。いわゆるアシッド色はやや薄かったかも。シンセサイザーの活き活きとした「うたってる」響き、繊細でいて豪快なアーティキュレーションはやはりサンプリングでは出せないと当たり前のことを再認識させます。アルバム中、最も「エレクトリカル・パレード」を彷彿とさせるこの曲を選びました。

Remix Of Nothing (Cut Off Intro) - Daedelus

デイデラスの新作から、某大御所クルーナーのボーカルをサンプリングしたキャッチーな「Admit Defeat」と迷って、こちらにしました。「Make some noise!」という掛け声、歓声、ヘッポコなエレクトロのリズム、8ビット・ゲームのエフェクト音、エキゾティックなストリングス、8分のOddなベースライン、「This is it. This is what I say. The remix this is. This is its. The remix」というデイデラス本人の(?)ボーカル。どれもがレトロでアウェイですが、これらを一つにまとめあげ新鮮に聴こえさせる手腕は彼だけの個性でしょう。この言葉遊びは「このリミックスには原曲はない」というタイトルと呼応して、ウィットに富んでいます。ルーク・ヴァイバートもデイデラスも、ずっと陽性のユーモアとウィットのあるインティメイトなインストゥルメンタルを作り続けている。そこに惹かれます。

Dancevader Biber-Hill Pop - Kiiiiiii

僕はまったくノーマークだったのですが、ジオデジック下城さんと某Jで雑談してる時に「いままたスカムがキテますよ」と教えてもらったのがKiiiiiiiの「Al&BUM」でした。カラフルな音色、巧みな展開、歌心を満載。試聴してすぐ気に入り紹介することになった次第。スカムかどうかはわからないけれど、なんとなく僕も大好きな映画「ゴースト・ワールド」を思わせるジャンクでトラッシーなガール・パワーを感じます。ハルカリやバッファロー・ドーターやピーチズやチック・オン・スピードや懐かしいリオのような活きのいいガールズ・ポップとして、素直に聴くのが一番かと。ガーリーと書くと、一気に90年代にリワインド。ライオット・ガールズも遠くなりにけり。そういえば、スリッツとエイドリアン・シャーウッドのジョイント・ライブは行けなかったけれどどうだったんだろう? やはりレゲエ色が強かったんだろうか。さておき。「Al&BUM」の中でも特にオールドスクール・エレクトロ色の強いこの曲を選びました。モロにグランドマスター・フラッシュなフロウ、ダースベイダーのメロディも中盤で登場します。他に「Hot But Milky Like Hot Milk」「Kiiiiiii For Any Occasion...Or Just For Fun !」「Hello Darkness」(この曲はストロベリー・スイッチブレイドそのもの・・)も素晴らしい楽曲です。音楽を楽しんでるのが直に伝わってきます。DJの時はマイケル・ジャクソンをかけるそう。いいなぁ。昔から女の子の等身大で真っ直ぐでウソのない表現には脊髄反射的に反応してしまいます。

サマー・クリアランス・セール - Best Music

HIM&ウルトラ・リヴィングのライブに行った際、ライターの福田教雄さんにサンプル盤をいただきました。なんとも脱力なジャケと中身にノックアウトされました。あえて何度も取り出して聴くかと言われればノーなんだけれど、存在自体がポップアートな貴重な一枚。モンドやミューザック(MUZAK)として分類されそうですが、こういうのは作り手がフザけて冗談っぽくやるのではなくマジに振り切れないと(今の時代感としても)面白くありません。小田島等さんはすこぶるマジなんだと思います。細野しんいちさんの音作りも堂に入ってます。インナーに寄せた福田さんの解説がよかったです(是非、読んでみてください)。そういえば、アトムハートもスーパーマーケットの音楽をテーマにアルバムを作りたいと数年前に言っていた。普段、センスが良いと思い込んでる僕らの音楽生活を反証するために。ユーモアというのは批評精神そのもの。僕の中では、KiiiiiiiもBEST MUSICもつながっています。

15 Step - Radiohead

「In Rainbows」の中から冒頭のエレクトロニカ色が唯一強いこのナンバーを選びました。今回の選曲はmessyでケオティックな曲ばかりです。最近、「Radiodread」や「Exit Music」といったカバー・アルバムで、レディオヘッドの楽曲の良さを再認識していたところです。 レゲエになってもR&Bになっても、どう料理されても芯にメロディが残っている。こういう音楽はやはり強い。Hostessにいただいた資料によると、「In Rainbows」は120万ダウンロードを記録し、平均4ポンド(950円)をユーザーが支払ったそうです。関連エントリーはコチラ

Ether - Jay Tram

マイアミのベータ・ボディガの近作は、この作品とかEpstein & El Conjuntoもそうだけれど、柔らかい、断片的な心象風景、サウンドスケープというか身の回りのサラウンドスケープを描き出すような方向性にシフトしてきてるのかなと思いました。一方で、ヒップホップという核は持続しています。Jay Tramは、選ぶ音にロックとジャズがちょうどよく混在していて、エーテル=Etherというこの楽曲は、空気や水のような浮遊感とエレクトリック・マイルスのようなフリーフォームを感じさせます。あと、ここ最近の潮流としてのサイケデリック色が濃い。ラストの「Work Song」はメディテーション・ミュージックのような酩酊感があります(短いのが残念)。内側に向かいつつも自閉しないで開かれているというか、全体としてはどこにも行き着かない3分くらいのスケッチを集めたような感触は、スペンサー・ドーランにも通じるものがあります。と、思わず分析してしまいたくなりますが、こういう傾向はしばらく続きそうです。

Umoja (Unity) - The Jahari Massamba Unit Feat. Karriem Riggins Trio

今年聴いたアルバムの中でもガツンと来た一枚(僕は、今年のベスト的なものがあまり好きではないし、そこまで多くのアルバムを聴き比べてもいないので、あくまで、現時点での、というくらいの軽い感じでとらえて下さい)。もはや埃っぽいスモーキーなブレイクビーツというカテゴリーも必要ないようなマッドリブ/YNQの新作です。DJやトラックメイカーがジャズ・ミュージシャンと組むと、結果はあまりよろしくないというか、予想以上の化学反応は生まれにくいというのが僕の正直な感想ですが(こちらの期待値が高すぎるのかもしれません)、このアルバムにあふれた才気はそういう邪心を軽く超えた音楽としての極めて真っ当なプレゼンテーションが為されています。フェイクがフェイクを超える瞬間というか(ブレイクビーツがフェイクで生ジャズが本物だとかそういうことではなく)、オーセンティックとエキセントリックの狭間を自由に行き来することが、時代と並走する現在進行形の音楽の特権でもあり、また、自明の命題だと思いますが、ここにはその一つの解答があるのではないかと言ってしまいたくなります。まさに、イエステデイでニューなクインテットというコンセプトを具現化した内容。「Upa Neguinho」や「Barumba」や「Bitches Brew」といった耳慣れたナンバーのカバーも耳を引きますが、ジャズ・ドラマー/プロデューサーのカリム・リギンスがスリリングなドラミングを聴かせるこの曲を選びました。

その他、Jonathan Krisp、Sub Version、Alf Emil Eik、The Durutti Column、Michael Fakeschなどがかけられなかったので、また次回。