Playlist 2011.9.16 27:45 - 29:00 at ORBIT 'Bar 紡'
あるぱちかぶと - あまりに或蜂的な (Inst.)
Exile - Hold On
Ages - Failures
El Remolón - La Bonita
Balam Acab - Oh, Why
Scuba - Before
FaltyDL - Winter Sole
Burnt Friedman & Jaki Liebezeit - Niedrige Decken
David Last - Early (Polyridmix)
Caribou - A Final Warning
Blast Head - Scene2
The Field - Sequenced
Larry Heard - Can You Feel It (Instrumental)
Rekid - Retro Active
Thomas Fehlmann - Soziale Wärme
Wally Badarou - Theme From Countryman
Brian Briggs - Aeo (Pts 1 & 2)
Him - Ain't That A Peach (Shochu Dub)
The Life Force Trio - Orbit (Spaceways Radio Theme, Forever)
Slicker & Phil Ranelin - Village Dub Plate - Unreleased Acoustic Version / Wife
ひさしぶりにOrbitで音楽をかけさせてもらいました。
他の皆さんはアッパーな4つ打ちメインだったので空気を読まず(?)、
夜明け前の出番ということもあり、チルアウト寄りな選曲です。
90年代のアンビエント・テクノをかけるという裏テーマは今回発動せず、です・・。
2011/09/18
2011/03/14
ブンミおじさんの森で
アピチャッポン・ウィーラセタクン監督の「ブンミおじさんの森」を観た。
冒頭、夜の森、牛が映し出される。よくあるワンカットの点景的な描写かと思いきや、モンタージュで牛の動きを延々追いかけていき、そのあと、3人の男女(ブンミ、ブンミの妻の妹のジェン、トン)が車で田園地帯を移動する真昼のシーンになり、ジェンの横顔がクローズアップされ、彼女の微笑む表情が柔らかく光に反射する。
この一連のシークエンスで「ああ、なんだかワケわかんないことが起こってるんだけど、ずっと画面を眺めてればいいんだな」と思った。話というかストーリーラインは箇条書きで何行かで終わってしまいそうなほどシンプル。
「ブンミおじさんの森」のひとつ前に、たまたまイーストウッドの「ヒア アフター」を観た。どちらの作品も死生観、この世とあの世の往還を描いている。「ヒア アフター」では、あちらの世界が本当に存在するかどうかは現実世界では証明できない、実際にマット・デイモンにそういう台詞を吐かせる場面があり、主人公たちもそこで葛藤することでドラマが生まれる。手堅く地に足をつけたディセンシーな演出で、イーストウッドはあの世の不確かさよりこの世の確かさを浮き彫りにする。
「ブンミおじさんの森」では、こちらとあちらの境界をスルリと通り抜けて、人と精霊がなんなく交流する。監督がインタビューで語ってる通り、(ザックリ言ってしまうと汎アジア的な)アニミズムが横溢している。「もののけ姫」を思わせるような描写もあり、タイのカルチャーをよく知らない僕にも馴染みのある絵作りだ。
田舎で農場を営むブンミと都会で暮らすジェン。精霊が住むアニミズムの世界とアニミズムが通用しなくなった世界。農場を継いで欲しいというブンミの申し出を断る一方で、ジェンは精霊の存在をあるがままに受け入れる。また、かつての妻フエイの霊にブンミは「あの世でも一緒にいられるか?」と聞くのだが、フエイはそれが不可能であることを暗に示すようにその問いに答えない。
監督は、あの世とこの世を混交させ、そこにある存在の不確かさに寄り添う。人と人の関係性をロジカルな方程式で解こうとする西洋人に対し、そのあいまいで不整合な「縁」や「綾」を解かないでおこうとする東洋人。同じ東洋人として僕は後者に組しつつ、前者から後者へと足を踏み入れるイーストウッドにも惹かれる。
この映画は一体どこに向かうのだろう? あちら側に突き抜けるのかというこちらの期待をスリ抜け、最後は電飾がギラギラしたカラオケ喫茶でジェンとトンが無言で座っている場面で終わり、エモなロックが流れる(このバンド、Penguin Villaのドラマーは漫画家のウィスット・ポンニミットであることを、あとで知った)。最後のカットはジェンの顔の大写しなのだが、これがまたなんともいえない複雑玄妙なイイ表情をしていて、冒頭の彼女のカットとつながるのだった。
ゆるやかな時間の流れ、異界に導かれるという設定に、タルコフスキー(「ストーカー」)やビクトル・エリセ(「ミツバチのささやき」)を想像したり。森のアンビエンスで始まり終わる、観る者に解釈を委ねるアンビエントな映画であり、催眠効果は高いとは言えるかも(笑)。
事前に誰かのレビューで「2001年宇宙の旅」を挙げていたので、「タイ映画でキューブリック?」と興味津々だったが、精霊が登場するシーンや後半の道行きで不協和音による瞑想的なサウンド・デザインが静かな高揚を生むところは、たしかに「2001年〜」を思わせる。
予想していた以上にアート志向の映画でもあり(エンドロールで幾つかのファンドがクレジットされる)、笑いの要素も控えめで、観客に親切な作りとは言えないが、むずかしい映画ではない。ドヤ顔でワカルぜと言いたくなるような論理的整合性で切る映画でもない。昔、共産党員を戦争で殺したというブンミの述懐が後半の未来のシーンで接続されるところはサッパリわからないし(無粋を承知で言えば、ブンミの脳内フラッシュバックとも言えそう)、途中で挿入される王女のエピソードでは寓話めいた世界が展開され、王女とナマズとの艶かしい交流(笑)のあと、素晴らしい水の高速度撮影のショットが続くのだけど、ブンミの物語とは直接には交わらない(最後の方でそれを匂わせるカットは出てくる)。
韓国映画のように血なまぐさくドギツく濃厚な人間模様とは対照的に、ブンミもジェンもトンもそれぞれの生を淡々と慎み深く生きている。彼らの声のトーンは一様に柔らかくジェントルで(精霊までもが)、この映画のトーンを決定している。そして、彼らはそれぞれのカルマによって現実に楔(くさび)を打たれている。ブンミは妻や息子を喪い人を殺した過去を持ち死を間近に控え、ジェンは娘はいるものの伴侶はおらず足が悪く、トンは(一時的に?)出家する。
精霊は人間の隠された欲望、人間が現実世界でかなえられない想い、果たせなかった願いを苗床にして人を異界に引き入れる存在=媒介者であり、彼らのナビゲートで、文字通り、人は人でなくなっていく。そこには無意識をトリガーにした気づきがあり、自然を自分たちの半身や鏡像ととらえ、精霊と触れ合うことで意識(肉体)を変容させ、現実界でこわばった生の有り様を活性化させるという古来の知恵がある。そうした物語のチカラをあっけらかんと信じてるように見せつつ、監督はエンドロールで撮影隊の音をちゃっかり入れる。これはオハナシに過ぎないんですよ、と。
最近、映画や小説で描かれる「食べる」という行為にいたく関心を持ってしまうのだけれど、この映画の「食べる」も印象に残った。精霊たちが現れる夜の食卓、ブンミが蜂の蜜をジェンに食べさせる場面(タマリンドの酸味がミックスされてて、とてもおいしそう!)、お葬式のお膳、シャワーを浴びたトンに「レモングラスみたいに臭いから近寄らないで」とからかうジェンの娘、ブンミに雇われたラオス人のことが話題に上ったときに引き合いに出るイサーン地方はタイ料理で知られている。
上映の前に地震に関するアナウンスがあった。未曾有の大地震と原発事故の影響でメンタルはズタボロだったが、この映画を観ることで、少しだけ穏やかなあたたかな気持ちになれた。こう書くとキレイゴト過ぎるかもしれないけど。そこに映し出された現実をひとまずあるがままに受け入れる。わからないことはわからないままで。その無防備がもたらす豊かさと慈しみと困難と理不尽ごと。
冒頭、夜の森、牛が映し出される。よくあるワンカットの点景的な描写かと思いきや、モンタージュで牛の動きを延々追いかけていき、そのあと、3人の男女(ブンミ、ブンミの妻の妹のジェン、トン)が車で田園地帯を移動する真昼のシーンになり、ジェンの横顔がクローズアップされ、彼女の微笑む表情が柔らかく光に反射する。
この一連のシークエンスで「ああ、なんだかワケわかんないことが起こってるんだけど、ずっと画面を眺めてればいいんだな」と思った。話というかストーリーラインは箇条書きで何行かで終わってしまいそうなほどシンプル。
「ブンミおじさんの森」のひとつ前に、たまたまイーストウッドの「ヒア アフター」を観た。どちらの作品も死生観、この世とあの世の往還を描いている。「ヒア アフター」では、あちらの世界が本当に存在するかどうかは現実世界では証明できない、実際にマット・デイモンにそういう台詞を吐かせる場面があり、主人公たちもそこで葛藤することでドラマが生まれる。手堅く地に足をつけたディセンシーな演出で、イーストウッドはあの世の不確かさよりこの世の確かさを浮き彫りにする。
「ブンミおじさんの森」では、こちらとあちらの境界をスルリと通り抜けて、人と精霊がなんなく交流する。監督がインタビューで語ってる通り、(ザックリ言ってしまうと汎アジア的な)アニミズムが横溢している。「もののけ姫」を思わせるような描写もあり、タイのカルチャーをよく知らない僕にも馴染みのある絵作りだ。
田舎で農場を営むブンミと都会で暮らすジェン。精霊が住むアニミズムの世界とアニミズムが通用しなくなった世界。農場を継いで欲しいというブンミの申し出を断る一方で、ジェンは精霊の存在をあるがままに受け入れる。また、かつての妻フエイの霊にブンミは「あの世でも一緒にいられるか?」と聞くのだが、フエイはそれが不可能であることを暗に示すようにその問いに答えない。
監督は、あの世とこの世を混交させ、そこにある存在の不確かさに寄り添う。人と人の関係性をロジカルな方程式で解こうとする西洋人に対し、そのあいまいで不整合な「縁」や「綾」を解かないでおこうとする東洋人。同じ東洋人として僕は後者に組しつつ、前者から後者へと足を踏み入れるイーストウッドにも惹かれる。
この映画は一体どこに向かうのだろう? あちら側に突き抜けるのかというこちらの期待をスリ抜け、最後は電飾がギラギラしたカラオケ喫茶でジェンとトンが無言で座っている場面で終わり、エモなロックが流れる(このバンド、Penguin Villaのドラマーは漫画家のウィスット・ポンニミットであることを、あとで知った)。最後のカットはジェンの顔の大写しなのだが、これがまたなんともいえない複雑玄妙なイイ表情をしていて、冒頭の彼女のカットとつながるのだった。
ゆるやかな時間の流れ、異界に導かれるという設定に、タルコフスキー(「ストーカー」)やビクトル・エリセ(「ミツバチのささやき」)を想像したり。森のアンビエンスで始まり終わる、観る者に解釈を委ねるアンビエントな映画であり、催眠効果は高いとは言えるかも(笑)。
事前に誰かのレビューで「2001年宇宙の旅」を挙げていたので、「タイ映画でキューブリック?」と興味津々だったが、精霊が登場するシーンや後半の道行きで不協和音による瞑想的なサウンド・デザインが静かな高揚を生むところは、たしかに「2001年〜」を思わせる。
予想していた以上にアート志向の映画でもあり(エンドロールで幾つかのファンドがクレジットされる)、笑いの要素も控えめで、観客に親切な作りとは言えないが、むずかしい映画ではない。ドヤ顔でワカルぜと言いたくなるような論理的整合性で切る映画でもない。昔、共産党員を戦争で殺したというブンミの述懐が後半の未来のシーンで接続されるところはサッパリわからないし(無粋を承知で言えば、ブンミの脳内フラッシュバックとも言えそう)、途中で挿入される王女のエピソードでは寓話めいた世界が展開され、王女とナマズとの艶かしい交流(笑)のあと、素晴らしい水の高速度撮影のショットが続くのだけど、ブンミの物語とは直接には交わらない(最後の方でそれを匂わせるカットは出てくる)。
韓国映画のように血なまぐさくドギツく濃厚な人間模様とは対照的に、ブンミもジェンもトンもそれぞれの生を淡々と慎み深く生きている。彼らの声のトーンは一様に柔らかくジェントルで(精霊までもが)、この映画のトーンを決定している。そして、彼らはそれぞれのカルマによって現実に楔(くさび)を打たれている。ブンミは妻や息子を喪い人を殺した過去を持ち死を間近に控え、ジェンは娘はいるものの伴侶はおらず足が悪く、トンは(一時的に?)出家する。
精霊は人間の隠された欲望、人間が現実世界でかなえられない想い、果たせなかった願いを苗床にして人を異界に引き入れる存在=媒介者であり、彼らのナビゲートで、文字通り、人は人でなくなっていく。そこには無意識をトリガーにした気づきがあり、自然を自分たちの半身や鏡像ととらえ、精霊と触れ合うことで意識(肉体)を変容させ、現実界でこわばった生の有り様を活性化させるという古来の知恵がある。そうした物語のチカラをあっけらかんと信じてるように見せつつ、監督はエンドロールで撮影隊の音をちゃっかり入れる。これはオハナシに過ぎないんですよ、と。
最近、映画や小説で描かれる「食べる」という行為にいたく関心を持ってしまうのだけれど、この映画の「食べる」も印象に残った。精霊たちが現れる夜の食卓、ブンミが蜂の蜜をジェンに食べさせる場面(タマリンドの酸味がミックスされてて、とてもおいしそう!)、お葬式のお膳、シャワーを浴びたトンに「レモングラスみたいに臭いから近寄らないで」とからかうジェンの娘、ブンミに雇われたラオス人のことが話題に上ったときに引き合いに出るイサーン地方はタイ料理で知られている。
上映の前に地震に関するアナウンスがあった。未曾有の大地震と原発事故の影響でメンタルはズタボロだったが、この映画を観ることで、少しだけ穏やかなあたたかな気持ちになれた。こう書くとキレイゴト過ぎるかもしれないけど。そこに映し出された現実をひとまずあるがままに受け入れる。わからないことはわからないままで。その無防備がもたらす豊かさと慈しみと困難と理不尽ごと。
2010/12/22
Quiet Storm / Crystallographic
Feed@Signでクリスマス用のコンピレーション、2種を配布しました。
Quiet Storm
01. Adriatic / Mount Kimbie 1:28
02. Step Pattern / Andres 3:08
03. Often Think To Myself / Mark 4:43
04. History (Feel The Vibe Remix) / ILL Suono 5:30
05. Life On The Ghetto Street / RADIQ 6:06
06. Happenin / Mark 5:39
07. Magic Fly Love Affair / Dorian 3:53
08. Low Shoulders / Toro Y Moi 3:37
09. Girls Dream / Maxmillion Dunbar 5:12
10. Every Kind Of People (Balearic Re-Work) / Robert Palmer 5:40
11. Tha Message / Ras G 2:59
12. Remember John W. Coltrane / Yesterday's New Quintet 1:47
13. We Almost Lost Detroit (Jay Todd Mix) / Gil Scott-Heron 2:05
14. Bobby / Ginger Does'em All 3:38
15. Losalamitoslatinfunklovesong / Gene Harris 3:10
16. Devil Weed And Me / Area Code 615 3:40
17. Where Am I / Tribe 7:08
18. Silver Circle / Jan Jelinek 4:15
File Under: Soulful Quiet Storm Balearic Urban Disco Edit House Music
Crystallographic
01. My Other Body / General Strike 3:52
02. Back To Sleep Back / The Ark 2:13
03. TIME PIE minute pie / Yamo 3:51
04. Miss Eternity / Atom & Masaki Sakamoto 5:16
05. Panorama / John Tejada 7:14
06. Flight 822 / dublee 6:57
07. Ping Pong / Sensorama 5:23
07. The Hysteric Song / März 5:20
09. Hung Markets / Seams 6:32
10. Vessel (Four Tet Remix) / Jon Hopkins 5:47
11. Same Dream China / Gold Panda 4:15
12. Hang For Bruno / Luciano 4:08
13. Surprise Stefani (Luke Abbott Remix) / Dan Deacon 6:15
14. White Diamond (Original Mix) / Hatchback 5:19
File Under: Winter Chill Warm Enfolding Dark Christallographic Electronic Music
「Quiet Storm」は元々「ido #2」の配布用に作ったのですが焼きとジャケが間に合わず(笑)、イベントに参加してもらった皆さんに内々で配布したものをさらに作り直したものです。Quiet Stormというのは、70年代後半に誕生したスロウ・ジャムなブラック・ミュージックを総称するジャンル名で(詳しくはWikipediaを参照ください)、スモーキー・ロビンソンがアルバム・タイトルにつけたことで知られるようになりました。いまではDJ Quietstormの方が日本では知られてるかと思いますが、この言葉の持つどこかミステリアスな響きが昔から好きです。厳密にはQuiet Stormじゃなくても気分としてそれを感じさせるような、デトロイト・ハウスやディスコ・エディットやバレアリックを横断するBPMが遅いダンス・ミュージックを中心に選びました。
「Crystallographic」は、J.G.バラードの「結晶世界」のBGMになりそうな(?)雪の結晶や鉱物=ミネラルを感じるミニマルな人肌電子音楽をセレクトしました。クラフトワークとマウス・オン・マーズのエッセンスが結合したYamoは90年代後半の古い作品ですが、今年いくつかのイベントでかけさせてもらい、自分の中ではレア・グルーヴなテクノとして再発見できたのがうれしい音源。9曲目以降は、去年から今年にかけて刺激を受けた音。Lucianoはこの並びだと展開があまりなくて厳密には飽きてしまうので、短くエディットしています(この空虚な退屈さも好みなのですが)。かといって、複雑で凝ったレフトフィールドな曲ばかり並べればいいかというとたぶんそんなことはなくて、ベタな例えですが、コース料理の最後にご飯と香の物をいただくような匙加減も必要で、その辺りは永遠の課題です。そんなことはともかく、このプレイリストを聴きながら、今はなきCISCO新宿店でバイヤーの東宮君にナビされてケルン・ハウス、ケルン・テクノを浴びるように聴いてた頃を思い出すのです。
'Feed' at Sign Gaienmae, Every 3rd Sunday
http://www.transit-web.com/shop/cafe/sign-gaienmae/
Quiet Storm
01. Adriatic / Mount Kimbie 1:28
02. Step Pattern / Andres 3:08
03. Often Think To Myself / Mark 4:43
04. History (Feel The Vibe Remix) / ILL Suono 5:30
05. Life On The Ghetto Street / RADIQ 6:06
06. Happenin / Mark 5:39
07. Magic Fly Love Affair / Dorian 3:53
08. Low Shoulders / Toro Y Moi 3:37
09. Girls Dream / Maxmillion Dunbar 5:12
10. Every Kind Of People (Balearic Re-Work) / Robert Palmer 5:40
11. Tha Message / Ras G 2:59
12. Remember John W. Coltrane / Yesterday's New Quintet 1:47
13. We Almost Lost Detroit (Jay Todd Mix) / Gil Scott-Heron 2:05
14. Bobby / Ginger Does'em All 3:38
15. Losalamitoslatinfunklovesong / Gene Harris 3:10
16. Devil Weed And Me / Area Code 615 3:40
17. Where Am I / Tribe 7:08
18. Silver Circle / Jan Jelinek 4:15
File Under: Soulful Quiet Storm Balearic Urban Disco Edit House Music
Crystallographic
01. My Other Body / General Strike 3:52
02. Back To Sleep Back / The Ark 2:13
03. TIME PIE minute pie / Yamo 3:51
04. Miss Eternity / Atom & Masaki Sakamoto 5:16
05. Panorama / John Tejada 7:14
06. Flight 822 / dublee 6:57
07. Ping Pong / Sensorama 5:23
07. The Hysteric Song / März 5:20
09. Hung Markets / Seams 6:32
10. Vessel (Four Tet Remix) / Jon Hopkins 5:47
11. Same Dream China / Gold Panda 4:15
12. Hang For Bruno / Luciano 4:08
13. Surprise Stefani (Luke Abbott Remix) / Dan Deacon 6:15
14. White Diamond (Original Mix) / Hatchback 5:19
File Under: Winter Chill Warm Enfolding Dark Christallographic Electronic Music
「Quiet Storm」は元々「ido #2」の配布用に作ったのですが焼きとジャケが間に合わず(笑)、イベントに参加してもらった皆さんに内々で配布したものをさらに作り直したものです。Quiet Stormというのは、70年代後半に誕生したスロウ・ジャムなブラック・ミュージックを総称するジャンル名で(詳しくはWikipediaを参照ください)、スモーキー・ロビンソンがアルバム・タイトルにつけたことで知られるようになりました。いまではDJ Quietstormの方が日本では知られてるかと思いますが、この言葉の持つどこかミステリアスな響きが昔から好きです。厳密にはQuiet Stormじゃなくても気分としてそれを感じさせるような、デトロイト・ハウスやディスコ・エディットやバレアリックを横断するBPMが遅いダンス・ミュージックを中心に選びました。
「Crystallographic」は、J.G.バラードの「結晶世界」のBGMになりそうな(?)雪の結晶や鉱物=ミネラルを感じるミニマルな人肌電子音楽をセレクトしました。クラフトワークとマウス・オン・マーズのエッセンスが結合したYamoは90年代後半の古い作品ですが、今年いくつかのイベントでかけさせてもらい、自分の中ではレア・グルーヴなテクノとして再発見できたのがうれしい音源。9曲目以降は、去年から今年にかけて刺激を受けた音。Lucianoはこの並びだと展開があまりなくて厳密には飽きてしまうので、短くエディットしています(この空虚な退屈さも好みなのですが)。かといって、複雑で凝ったレフトフィールドな曲ばかり並べればいいかというとたぶんそんなことはなくて、ベタな例えですが、コース料理の最後にご飯と香の物をいただくような匙加減も必要で、その辺りは永遠の課題です。そんなことはともかく、このプレイリストを聴きながら、今はなきCISCO新宿店でバイヤーの東宮君にナビされてケルン・ハウス、ケルン・テクノを浴びるように聴いてた頃を思い出すのです。
'Feed' at Sign Gaienmae, Every 3rd Sunday
http://www.transit-web.com/shop/cafe/sign-gaienmae/
2010/12/08
# : ido vol.2
直前のお知らせでスイマセン。今週土曜日、12.11に「井:ido」の2回目を開催することになりました。詳細は、「井:ido」の単独ブログを作りましたので、ソチラをご覧ください。
井 : ido Vol.2
2010.12.11 (Sat)
Open: 22:00 Start: 22:00
at 三軒茶屋Bar Orbit
http://bar-orbit.com/
Charge: 1000Yen (1Drink)
Disc Jockey(音楽を紹介する人): 服部全宏
Sound: Coyubi, Softcream, Eucalypso
Live Paint: 小田島等, Yum
http://idoit.posterous.com/2
2010/10/04
ido@BarOrbit
突然ですが、今週金曜日、三軒茶屋ORBITでラウンジなパーティをやらせていただくことになりました。ORBITでやられてるDJの皆さんは凄い人たちばかりなので気が引けてしまいますが、せっかくの機会なのでリラックスした感じで楽しみたいと思っています。今回は初めての試みで、Twitterで知り合ってまだ間もないCybeckさんをお誘いしてみました。多分に井の中の蛙な自分ですが、せっかくソーシャルなツールが身近にあるので活用していきたいなと思ったりしてます。ではでは、よろしくお願いします。
井 - ido -
2010.10.08 Fri. Open: 20.:00 Start 22:00
at Bar Orbit
http://bar-orbit.com/
Charge Free
Sound: hammer, cybeck, izumi-, eucalypso
「市井(しせい)」という言葉は、その昔、中国で井戸のある周辺に人家が集まったこと、または、市街で道が井の字の形をしていることに由来するそうです(三省堂「大辞林第二版」より)。かつて井戸を囲んだ市井の人、名もない人々のアノニマスな営為によって、日々の世界は作られています。「井」は、多種多様なマルチチュードな人と音がタテとヨコに交差する街路をイメージしたラウンジパーティです。井戸から汲み上げた水のような空間に浸りにいらしてください。
井 - ido -
2010.10.08 Fri. Open: 20.:00 Start 22:00
at Bar Orbit
http://bar-orbit.com/
Charge Free
Sound: hammer, cybeck, izumi-, eucalypso
「市井(しせい)」という言葉は、その昔、中国で井戸のある周辺に人家が集まったこと、または、市街で道が井の字の形をしていることに由来するそうです(三省堂「大辞林第二版」より)。かつて井戸を囲んだ市井の人、名もない人々のアノニマスな営為によって、日々の世界は作られています。「井」は、多種多様なマルチチュードな人と音がタテとヨコに交差する街路をイメージしたラウンジパーティです。井戸から汲み上げた水のような空間に浸りにいらしてください。
Burning Inside
舞踏家、振付師、女優として幅広く活動されている俵野枝さんが、先日「progresso 9#」@FIAT SPACEで発表した新作のダンス「Burning Inside 2010 - Short Version - 」のサウンド編集と一部の選曲を担当させていただきました。
野枝さんとのお仕事は、これで3度目になります。前回の覚え書きはコチラ。今回は、季節が近づいては過ぎ去っていくイメージを5分間のイントロで表現したいということで、春(川のせせらぎ、鳥)、夏(蝉、祭り囃子、花火、雷雨)、秋(カラス、稲穂の揺れる田園)、冬(除夜の鐘、木枯らし)をそれぞれの季節を表す楽曲とサウンド・エフェクトで構成しました。
前半のパートでは主人公の女性を「黒髪」という地唄舞の曲で具象的に描写し、後半のパートではその内面を野枝さんからのリクエストで坂本龍一の曲をミックスして抽象的に描写するという形になりました。1年くらい前に、坂本龍一の曲をいくつか焼いて渡していたのですが、まさか本当に使うことになるとは思わなかったです。
野枝さんには坂本も含むわりとリリカルなピアノの曲も聴いてもらったのですが、彼女のダンスそのものがウェットな要素が強いので、センチメンタルな音だとトゥーマッチになる、感情を抑えたフラットな音の方が強弱がついていいと言われ、なるほどと思いました。
ココからちょっと脱線します(↓)。
坂本の曲というのは、彼の理論武装や高度な作曲術うんぬんといった批評家が好みそうなレイヤーではなく、もっと素朴でベタな次元で現代人が抱える虚無=エンプティネスをすくい上げるところがあって(「戦メリ」とか「エナジー・フロウ」とかまさにそうですよね)、アンビエントの自浄作用とかいうとカッコイイけど、、坂本をここまでポピュラーにした良くも悪くも「癒し」という言葉にも通じる回路って改めて強いなと思うわけです。
これはシニカルに言ってるのではなく、癒しやセンチメントって野暮にも下品にもなりやすいし、私小説やケータイ小説などワタクシゴトの領域に向かいがちなのですが、坂本の曲はそういうベタついた感情を排除というか濾過していて、都会人を気取る(?)僕やあなたが心地よく浸れるだけの上質な天然素材やミネラルウォーターのような安全地帯を担保できるのです。
なんだか書いてるうちにイヤミな文章になってますが(汗)、ナンダカンダと20年くらい坂本さんの曲を愛憎込みで聴き続けていて、様子を見てはこっそりカフェでかけたりしますし、下世話に言えば、主張が控えめで使いやすくシーンを問わない彼の曲はツールとしても優れていると思います(あくまでDJ的な視点です。ファンから怒られそう)。
脱線終わり(↑)。
当日の公演は行けなかったのですが、かなりリアクションがあったそうで一安心しました。ラストに沢井忠夫という箏(琴)奏者の「鳥のように」という曲(野枝さんの選曲)が使われてるんですが、その沢井さんの息子さんに指導を受けている奏者の方が偶然お客さんで来ていたというサプライズもあったようです。「鳥のように」を編集中に何度も聴きましたが、日本の伝統音楽に明るくない僕でも素直にカッコイイ!と思える、モダンでエモでちょっとプログレやサイケの匂いも感じなくはない楽曲です。さらに、沢井忠夫がジャズやクラシックにも越境していた音楽家だと知り、そのまったく古びない自由な音楽をちゃんと聴いてみたいと思いました。
Playlist
Intro
River Walk (天気雨) - Hajime Yoshizawa, GoRo
ぼくのかけら (with ダンスリー) - 坂本龍一
Amb - Rafael Toral
Mix
glacier- 坂本龍一
tama- 坂本龍一
国防総省 - 坂本龍一
野枝さんとのお仕事は、これで3度目になります。前回の覚え書きはコチラ。今回は、季節が近づいては過ぎ去っていくイメージを5分間のイントロで表現したいということで、春(川のせせらぎ、鳥)、夏(蝉、祭り囃子、花火、雷雨)、秋(カラス、稲穂の揺れる田園)、冬(除夜の鐘、木枯らし)をそれぞれの季節を表す楽曲とサウンド・エフェクトで構成しました。
前半のパートでは主人公の女性を「黒髪」という地唄舞の曲で具象的に描写し、後半のパートではその内面を野枝さんからのリクエストで坂本龍一の曲をミックスして抽象的に描写するという形になりました。1年くらい前に、坂本龍一の曲をいくつか焼いて渡していたのですが、まさか本当に使うことになるとは思わなかったです。
野枝さんには坂本も含むわりとリリカルなピアノの曲も聴いてもらったのですが、彼女のダンスそのものがウェットな要素が強いので、センチメンタルな音だとトゥーマッチになる、感情を抑えたフラットな音の方が強弱がついていいと言われ、なるほどと思いました。
ココからちょっと脱線します(↓)。
坂本の曲というのは、彼の理論武装や高度な作曲術うんぬんといった批評家が好みそうなレイヤーではなく、もっと素朴でベタな次元で現代人が抱える虚無=エンプティネスをすくい上げるところがあって(「戦メリ」とか「エナジー・フロウ」とかまさにそうですよね)、アンビエントの自浄作用とかいうとカッコイイけど、、坂本をここまでポピュラーにした良くも悪くも「癒し」という言葉にも通じる回路って改めて強いなと思うわけです。
これはシニカルに言ってるのではなく、癒しやセンチメントって野暮にも下品にもなりやすいし、私小説やケータイ小説などワタクシゴトの領域に向かいがちなのですが、坂本の曲はそういうベタついた感情を排除というか濾過していて、都会人を気取る(?)僕やあなたが心地よく浸れるだけの上質な天然素材やミネラルウォーターのような安全地帯を担保できるのです。
なんだか書いてるうちにイヤミな文章になってますが(汗)、ナンダカンダと20年くらい坂本さんの曲を愛憎込みで聴き続けていて、様子を見てはこっそりカフェでかけたりしますし、下世話に言えば、主張が控えめで使いやすくシーンを問わない彼の曲はツールとしても優れていると思います(あくまでDJ的な視点です。ファンから怒られそう)。
脱線終わり(↑)。
当日の公演は行けなかったのですが、かなりリアクションがあったそうで一安心しました。ラストに沢井忠夫という箏(琴)奏者の「鳥のように」という曲(野枝さんの選曲)が使われてるんですが、その沢井さんの息子さんに指導を受けている奏者の方が偶然お客さんで来ていたというサプライズもあったようです。「鳥のように」を編集中に何度も聴きましたが、日本の伝統音楽に明るくない僕でも素直にカッコイイ!と思える、モダンでエモでちょっとプログレやサイケの匂いも感じなくはない楽曲です。さらに、沢井忠夫がジャズやクラシックにも越境していた音楽家だと知り、そのまったく古びない自由な音楽をちゃんと聴いてみたいと思いました。
Playlist
Intro
River Walk (天気雨) - Hajime Yoshizawa, GoRo
ぼくのかけら (with ダンスリー) - 坂本龍一
Amb - Rafael Toral
Mix
glacier- 坂本龍一
tama- 坂本龍一
国防総省 - 坂本龍一
2010/08/15
SUM/ME/R
もともと5月に児玉画廊で行われた「デザイン茶会」というケンチク系イベントのオープニング前後に流した静かめな曲を、改めて配布用のコンピとして選曲し直したものです。振り返りモード全開な、わかる人には丸わかりなベタで恥ずかしい選曲ですが。
こうして集めてみると、僕が勝手に標榜している「壁紙音楽」というのは、情景描写音楽なんだなと。エレベーター・ミュージック/スーパーマーケット・ミュージック/ミューザックみたいに聞き流せる音楽だけど、ディープ・リスニングにも耐えうるような、中間項の音楽なんだと思います。
どの曲も、昔よく聴いてたり、最近部屋から発掘して改めて再発見したものだったり。春に引っ越ししたときに高校、大学、社会人になってから作ったコンピレーションのカセットテープがわんさか出てきて、同じようなことを飽きずに何十年もやってきたんだなと呆れました。
(以下、曲紹介をちょっとだけ)
アルファはFEED@SIGNでレギュラーでやってもらってるIWALSKY君がある日かけていて、そういえば!と思い出しました。まさに日だまりダブ。
ガブリエル・ヤレドのサントラ「ベティ・ブルー」からボサノヴァのリズムでメインテーマを変奏した曲は、打ち込みによるサンプリング音が次第に絡み、ウォリー・バダルーのようなクールネスを醸し出しています。このような響きがなんでもありになったゼロ〜2010年代にナゼ継承されないのか、というのは僕の中でひとつの課題です。
ヘルメート・パスコアールは、この並びの中で一番古い録音ですが、多重録音された管楽器のアンサンブル、生音による饒舌なミニマル・ミュージック、その瑞々しい響きの強度にヤラれます(録音が飛び抜けていいのもありますね)。
マッドリブの音はジャクソン・コンティに限らず、デカイ音で聴くとダンス・ミュージックとして機能し、そうでなくてもリスニングに最適化されるという、理想的な壁紙音楽です。イヴァン・コンティのドラムが最高。
オザケンに関しては同時代の人ながらあまりちゃんと追いかけてなかったのですが、「毎日の環境学」はそのエコロジカルなパッケージをウソっぽくしない内実のあるポストロックとワールドとダブが混じった素晴らしい演奏が詰まってます。
SUM/ME/R
- SUM of MEmoRies of SUMMER -
01 Tiki Tiki Too - Chari Chari
02 Penguin Cafe Single - Penguin Cafe Orchestra
03 Download Sofist - Mouse On Mars
04 Modular Mix - Air
05 Hazeldub - Alpha
06 Chile Con Carne - Gabriel Yared
07 Banda Encarnação - Hermeto Pascoal
08 Praça da Republica - Jackson Conti
09 The Sea (I Can Hear Her Breathing) - Kenij Ozawa
10 Sprout - Masayasu Tzboguchi Trio
11 Discover Tokyo - Shuta Hasunuma
12 The Suspension Bridge At Iguaz' Falls - Tortoise
13 Journey's Homes - Savath & Savalas
14 Shisheido - Christian Fennesz
15 Vacant - Combo Piano
16 Cavatina (Myers) - Hiroshi Fujiwara
Drop Of Sound
先日、「Drop Of Sound」というイベントでかけた曲のプレイリストをアップします。民族音楽や土臭い音からダブステップ、遅めのハウス、ブレイクスという括りでやりました。その前の麹町画廊でやれなかった夏っぽい感じもちょっと意識しました。このところ、フォーテットのミックスを気に入って聴いてたので、その影響が露骨に伺えます(笑)。この中で一番気に入ってる楽曲は、To Rococo RotのShackletonミックス。挿入されたスピーチ+アンビエントなサウンドのレイヤー+ダブステップなリズムによるイメージ喚起力がスゴイ。
ちなみに、便宜上告知などで「DJ」という言葉を使いますが、自分のことを「DJ」だと思ったことはありません。それは、プロフェッショナルなDJに対しておこがましいという気持ちと、自分のやってることは「DJ」というより「選曲家」(桑原茂一さんが広めた言葉で、これもご大層な感じでかしこまってしまいます)というよりむしろ「ディスクジョッキー」=「ラジオやイベントなどで曲を紹介する人」という平たい言い方がしっくり来るのでは?と思ってるからです。
'Drop Of Sound' at Office Gaienmae 2010.07.31
Thursday, August 9, 2007 - Carlos Niño & Friends
Room Runner - Libro
Voice Of The World - Shingo Suzuki
Tha Free Up (Party People) - Ras G
Latinidad Mio - Epstein
Saturday - KuroiOto
Summertime Is Here - Theo Parrish
People ~ finale - RADIQ
You Don't Wash (Actress' Negril Mix) - Kode9
Wing Body Wing - Four Tet
My Teenager Gang - Minilogue
Fridays (Shackleton's West Green Rd Remix) - To Rococo Rot
Gravity - Lusine
Okinawa Song - Chin Nuku Juushii - Ryuichi Sakamoto
Ah! - Oval
Post Atmosphere (Baths Remix) - Shlohmo
MmmHmm - Flying Lotus
ちなみに、便宜上告知などで「DJ」という言葉を使いますが、自分のことを「DJ」だと思ったことはありません。それは、プロフェッショナルなDJに対しておこがましいという気持ちと、自分のやってることは「DJ」というより「選曲家」(桑原茂一さんが広めた言葉で、これもご大層な感じでかしこまってしまいます)というよりむしろ「ディスクジョッキー」=「ラジオやイベントなどで曲を紹介する人」という平たい言い方がしっくり来るのでは?と思ってるからです。
'Drop Of Sound' at Office Gaienmae 2010.07.31
Thursday, August 9, 2007 - Carlos Niño & Friends
Room Runner - Libro
Voice Of The World - Shingo Suzuki
Tha Free Up (Party People) - Ras G
Latinidad Mio - Epstein
Saturday - KuroiOto
Summertime Is Here - Theo Parrish
People ~ finale - RADIQ
You Don't Wash (Actress' Negril Mix) - Kode9
Wing Body Wing - Four Tet
My Teenager Gang - Minilogue
Fridays (Shackleton's West Green Rd Remix) - To Rococo Rot
Gravity - Lusine
Okinawa Song - Chin Nuku Juushii - Ryuichi Sakamoto
Ah! - Oval
Post Atmosphere (Baths Remix) - Shlohmo
MmmHmm - Flying Lotus
2010/08/13
イビツなフィクションとしての「インセプション」
クリストファー・ノーラン監督の「インセプション」を観た。(*ネタバレあり)
前作「ダークナイト」のような重量級の手応えを勝手に期待していたので、「007」を意識したというノーラン自身の発言の通り、軽快なタッチで展開する物語に最初はのめり込めなかった。緻密だと評されてるわりにスッポヌケてるところもあり、バットマン・シリーズの重圧から逃れて自由にノビノビと作家性を発揮するとこうなるのか、などと思っているうちに、この映画の持つイビツなおもしろさに惹きつけられていった。
前作「ダークナイト」はもともと荒唐無稽なフィクションであるアメコミを限りなくリアリズムに近づけることで、ゴッサム・シティはシカゴという現実の街に、ジョーカーはヒース・レジャーという現実の肉体に置き換えられ、「正義なんてとうに形骸化していて、むしろジョーカーの体現する悪の方がアクチュアルなんじゃないの?」という倫理観を揺さぶるところまで踏み込んだ、ヘヴィな起爆力を持った作品だった。
「インセプション」の場合はちょうどその逆のヴェクトルで成立していて、パリや東京やタンジールといった現実空間で(時制もおそらく現在)、アタッシュケースに入ったローテク過ぎるガジェットと薬剤を使って他人の夢に潜入する技術が体系化され、産業スパイの仕事として成立している世界が展開される。リアリズムをベースにした、一昔前のB級SFめいた荒唐無稽なフィクションで、クラシックな意匠に覆われている。
「ダークナイト」と違って完全オリジナルということもあり、「この世界はこういう因果律で回っているんだよ」という送り手と受け手が共有すべき根っこにあるコンセンサスは提示されず、夢の世界のルールは理路整然と細かく説明される。このイビツな非対称性。SF小説であれば最初の何十頁かを割く、フィクションを駆動させるために必要な世界観の説明を省いてるので、リアリズムのベースの上に乗っかってる「夢を操作する」というフィクショナルなバカバカしさに首をかしげてしまうと、この映画にハマれなくなってしまう。
ノーランはそこはおそらく了解済みで、導入部からいま映っている画面が現実なのかそれとも夢なのかを絶えず観客に意識させることで不安を持続させ、現実と夢を分け隔てるのはカットの切り替えだけという映画の原理を利用して、現実と夢の地続き(というか地滑り?)を詐術として語ることにのみ心血を注いでいる。この作家主義なアプローチが世界中の人が観るメジャー資本の映画であることと齟齬が生じるのは当然で、そこもイビツである。
プロット自体は、各地に散らばった仲間を集めてミッションに挑むという、ケイパーものと呼ばれるジャンルに忠実でシンプル。キャラクターの活かし方や物語内での配置はかなりツイストしてあって、ディカプリオ(コブ)がリーダーをつとめるチームの仲間が、犯罪映画であるにも関わらず全員イイヤツで最後まで裏切らないというのに、まずもって驚くし、敵らしい敵もいない(このへんも途中まで「ダークナイト」に比べて「軽い」と思ってしまった理由のひとつ)。
これは、「千と千尋」以降の宮崎駿が意識的に描いてきた善悪を超越した世界観にも通じるところで、「われわれの世界ですでに始まりつつあるのは、「悪」が消滅し、「対立」や「抑圧」が人工的にしか存在しえない世界である」という、粉川哲夫が「9(ナイン)」のレビューで書いていた言葉が、そのまま「インセプション」の内実を言い当てている。
渡辺謙(サイトー)は超巨大企業のVIPで権力者で東洋人というリアリティのないキャラクター設定で、準主役級の扱いながら、後半はほぼ死体のようにそこに倒れている。どういうことなんだ?と思ってると、リンボー(字幕では「虚無」と意訳されていた、直訳すると「辺獄」=地獄の辺土)でサイトーとコブと対峙する最後のシーンが最初とつながり、渡辺謙の立ち位置が物語を一歩引いて見ている観察者=オブザーバー、現実世界ではコブにミッションを委任するクライアントでありつつ、コブより先に夢の迷宮であるリンボーをさまよう、夢先案内人というか魂の共犯者のような存在であることがわかる。
無重力のホテルでサイレントで優雅なアクションを担当するのは、チーム内で一番草食男子っぽい優男のジョセフ・ゴードン=レヴィット(アーサー)で、これは「マトリックス」的な、あるいは、ブラッカイマー的なスピーディーで物量主義なアクションに対するツイストになっている。
前半、パリの街をねじ曲げたり鏡合わせしたりアイキャンディな夢で魅了するエレン・ペイジ(アリアドネ)が、後半の山場でその能力をまったく発揮しないのは、VFXのドーピングに馴れた観客に対するツイストとも取れるし、コブのトラウマに物語がフォーカスするにつれ、アリアドネがコブのカウンセラーとなり代理母のようにふるまうという、役割のズラしがある。
最も強力なツイストであり物語のフックとなるキャラクターは、コブの妻、マリオン・コティヤール(モル)。モルは即物的にいきなり画面に現れ、コブに対する精神的DVを容赦なく実行する。映画内ルールを突き破るような侵犯者であるモルの登場するシークエンスはホラーそのもので、いくらでも扇情的で生理に訴えかけるサスペンスフルな映像表現に頼れそうなのに、そういう思わせぶりで下品なことをノーランはやらない。
夢をインスピレーションの源泉として扱うデヴィッド・リンチが作る、潜在意識を直接ダウンロードするようなエロティックで扇情的な映画とも違うし(「マルホランド・ドライブ」の伏線の畳み方を夢で思いついたとリンチ本人が告白している)、スパイク・ジョーンズやミシェル・ゴンドリーのような人がスラップスティックな知的操作として夢を扱う手つきとも違う。
良く言えば、生真面目で禁欲的な演出、悪く言えば、エロスが足りない。ノーランは丹念にロジックを積み上げていって大づかみに狙ったものに直球を投げる無骨な人、なんというか、「唯物論者」っぽい気がする(この言い方は適当じゃないだろうけど)。同じくイギリス人の監督ということで、この映画を観ている間、ずっと頭にあったのが、男がファム・ファタールの亡霊=ファントムに幻惑されるというプロットがそっくりなヒッチコックの「めまい」だった。
モルが何かやらかすたび、僕は映画館で不謹慎な笑いを噛み締めていたのだけれど、潜在意識だかイドの怪物だかがセルフコントロールを失って現実(「インセプション」では夢)を浸食していくという、フィリップ・K・ディック的な現実崩壊感覚のトラジコミカルな様相を、ノーランはうまくキャラクタライゼーションとして映画に落とし込んでいる。スラヴォイ・ジジェクだったら、夢が階層構造になってるという、この精神分析ホイホイな映画をどう解説するのか、興味深い(*1)。
ノーランの処女作「メメント」のアイディアは画期的だったけど、主人公が選択する運命の分岐をイーブンに均等の配分で演出することで、「それってどっちに転んでも同じじゃない? つまりは、なんでもアリなのでわ?」という構造的な弱点を抱えていた。仮想現実をゲームのように描いたクローネンバーグの「イグジステンズ」と同じ陥穽にハマっていたというか。「マトリックス」シリーズは、あらかじめ設計された仮想現実内でしか自由を行使しえないという鋭い批評性が、ヒーローの全能感や自己肯定にスリ寄るうちに消えてしまい、つまらなくなってしまった。
不自由な現実に対する自由なフィクションの優位性は、なんでもアリになってしまった途端にその魅力を失効してしまう。これは現実なのか夢なのかという、(町山智浩が「インセプション」について語った言葉を借りれば)「無限後退」していく悪夢のような後味の悪さは、物語はいくらでも何度でもリセットして再生産できるという留保とワンセットなので、本来的に気持ち悪いのだ。
「インセプション」では、先行する諸作品のこうした欠点を、1つは映画内にルールを設けてなんでもアリな自由を制御・制限することで、もう1つはトラウマを克服するという、それ自体はありきたりで古典的だがエモーショナルなドラマを中心に据えることで、クリアしているように思う。コブは自ら作り上げた居心地のいい夢の牢獄、まさにアーキテクチャに自分を縛りつけている幻影に対峙しケリをつける。これは「ゲド戦記」のモダンなヴァージョンにも思える。
コブは自分を現実につなぎとめる唯一の依り代だった子供を取り戻す代償として、モルを失う。映画を通じて、コブは変化し成長し、彼の選択した分岐が意味を持つことが明らかになる。ラスト、自宅の居間で一瞬「??」と怪訝そうな顔をしたコブが、コマが回り続けるかどうかを確認せず子供が待つ庭に向かうのは、分岐による結末がどうであろうと、それを引き受けるという意志の現れだろう(*2)。
この映画のスッキリした後味のよさは、夢や仮想現実を扱ってきた先行作品の後味の悪さを批判的に継承して交通整理できたからこそ生まれたものだ。結果としてハリウッド製エンタメの枠内に収まる家族の神話という倫理コードに添った形になってはいるけれど。この作品の面白さと表裏一体の退屈さは、「マトリックス」が公開された10年前と比べても、仮想現実のありようがより日常レベルに取り込まれたフェーズに入っていることの証明でもあり、エンタメが今後この(各人に最適化され島宇宙化した)新しいリアリティを描くことの困難を、計らずも示していると見ることもできる。
ピカレクス・ロマンだった「ダークナイト」とは逆のヴェクトルで、2010年代に作られるべくして作られたこの作品で、僕の中でノーランはフィンチャーと並んでメジャーグラウンドでチャレンジングなことをやってくれる楽しみな人になった(*3)。
雑感。「バットマン・ビギンズ」のときはヒドかった、なにかとムラのあるノーランのアクション演出。今回も雪山の戦いでは誰が何をやってるのかよくわからず、スリルのなさがちょっと異常。あそこを大幅にカットすれば、もっと締まったんじゃないかと思った。逆に、雪山と同時進行する無重力のホテルでのシークエンスは素晴らしく(メイキング映像を観ると、ポスト・プロダクションに頼らない、かなり大掛かりなセットを組んでいて、それがあのリアリティを生み出している)、渡辺謙の額のあたりに血球が浮かんでるカットは、個人的に本作のベストショット。
*1=春頃に観た「スラヴォイ・ジジェクによる倒錯的映画ガイド」は、ジジェク本人がシリアスに映画を語れば語るほどコメディになっていくという、パラドキシカルな怪作だった。
*2=このジャンルの先駆者として誰もが認める押井守だが、彼は「スカイ・クロラ」でも無限後退する閉じた世界という美学にこだわるあまり、主人公のベタな成長を描くことができなかった。
*3=この2人はキューブリックの継承者ということでも似ていると思う。
前作「ダークナイト」のような重量級の手応えを勝手に期待していたので、「007」を意識したというノーラン自身の発言の通り、軽快なタッチで展開する物語に最初はのめり込めなかった。緻密だと評されてるわりにスッポヌケてるところもあり、バットマン・シリーズの重圧から逃れて自由にノビノビと作家性を発揮するとこうなるのか、などと思っているうちに、この映画の持つイビツなおもしろさに惹きつけられていった。
前作「ダークナイト」はもともと荒唐無稽なフィクションであるアメコミを限りなくリアリズムに近づけることで、ゴッサム・シティはシカゴという現実の街に、ジョーカーはヒース・レジャーという現実の肉体に置き換えられ、「正義なんてとうに形骸化していて、むしろジョーカーの体現する悪の方がアクチュアルなんじゃないの?」という倫理観を揺さぶるところまで踏み込んだ、ヘヴィな起爆力を持った作品だった。
「インセプション」の場合はちょうどその逆のヴェクトルで成立していて、パリや東京やタンジールといった現実空間で(時制もおそらく現在)、アタッシュケースに入ったローテク過ぎるガジェットと薬剤を使って他人の夢に潜入する技術が体系化され、産業スパイの仕事として成立している世界が展開される。リアリズムをベースにした、一昔前のB級SFめいた荒唐無稽なフィクションで、クラシックな意匠に覆われている。
「ダークナイト」と違って完全オリジナルということもあり、「この世界はこういう因果律で回っているんだよ」という送り手と受け手が共有すべき根っこにあるコンセンサスは提示されず、夢の世界のルールは理路整然と細かく説明される。このイビツな非対称性。SF小説であれば最初の何十頁かを割く、フィクションを駆動させるために必要な世界観の説明を省いてるので、リアリズムのベースの上に乗っかってる「夢を操作する」というフィクショナルなバカバカしさに首をかしげてしまうと、この映画にハマれなくなってしまう。
ノーランはそこはおそらく了解済みで、導入部からいま映っている画面が現実なのかそれとも夢なのかを絶えず観客に意識させることで不安を持続させ、現実と夢を分け隔てるのはカットの切り替えだけという映画の原理を利用して、現実と夢の地続き(というか地滑り?)を詐術として語ることにのみ心血を注いでいる。この作家主義なアプローチが世界中の人が観るメジャー資本の映画であることと齟齬が生じるのは当然で、そこもイビツである。
プロット自体は、各地に散らばった仲間を集めてミッションに挑むという、ケイパーものと呼ばれるジャンルに忠実でシンプル。キャラクターの活かし方や物語内での配置はかなりツイストしてあって、ディカプリオ(コブ)がリーダーをつとめるチームの仲間が、犯罪映画であるにも関わらず全員イイヤツで最後まで裏切らないというのに、まずもって驚くし、敵らしい敵もいない(このへんも途中まで「ダークナイト」に比べて「軽い」と思ってしまった理由のひとつ)。
これは、「千と千尋」以降の宮崎駿が意識的に描いてきた善悪を超越した世界観にも通じるところで、「われわれの世界ですでに始まりつつあるのは、「悪」が消滅し、「対立」や「抑圧」が人工的にしか存在しえない世界である」という、粉川哲夫が「9(ナイン)」のレビューで書いていた言葉が、そのまま「インセプション」の内実を言い当てている。
渡辺謙(サイトー)は超巨大企業のVIPで権力者で東洋人というリアリティのないキャラクター設定で、準主役級の扱いながら、後半はほぼ死体のようにそこに倒れている。どういうことなんだ?と思ってると、リンボー(字幕では「虚無」と意訳されていた、直訳すると「辺獄」=地獄の辺土)でサイトーとコブと対峙する最後のシーンが最初とつながり、渡辺謙の立ち位置が物語を一歩引いて見ている観察者=オブザーバー、現実世界ではコブにミッションを委任するクライアントでありつつ、コブより先に夢の迷宮であるリンボーをさまよう、夢先案内人というか魂の共犯者のような存在であることがわかる。
無重力のホテルでサイレントで優雅なアクションを担当するのは、チーム内で一番草食男子っぽい優男のジョセフ・ゴードン=レヴィット(アーサー)で、これは「マトリックス」的な、あるいは、ブラッカイマー的なスピーディーで物量主義なアクションに対するツイストになっている。
前半、パリの街をねじ曲げたり鏡合わせしたりアイキャンディな夢で魅了するエレン・ペイジ(アリアドネ)が、後半の山場でその能力をまったく発揮しないのは、VFXのドーピングに馴れた観客に対するツイストとも取れるし、コブのトラウマに物語がフォーカスするにつれ、アリアドネがコブのカウンセラーとなり代理母のようにふるまうという、役割のズラしがある。
最も強力なツイストであり物語のフックとなるキャラクターは、コブの妻、マリオン・コティヤール(モル)。モルは即物的にいきなり画面に現れ、コブに対する精神的DVを容赦なく実行する。映画内ルールを突き破るような侵犯者であるモルの登場するシークエンスはホラーそのもので、いくらでも扇情的で生理に訴えかけるサスペンスフルな映像表現に頼れそうなのに、そういう思わせぶりで下品なことをノーランはやらない。
夢をインスピレーションの源泉として扱うデヴィッド・リンチが作る、潜在意識を直接ダウンロードするようなエロティックで扇情的な映画とも違うし(「マルホランド・ドライブ」の伏線の畳み方を夢で思いついたとリンチ本人が告白している)、スパイク・ジョーンズやミシェル・ゴンドリーのような人がスラップスティックな知的操作として夢を扱う手つきとも違う。
良く言えば、生真面目で禁欲的な演出、悪く言えば、エロスが足りない。ノーランは丹念にロジックを積み上げていって大づかみに狙ったものに直球を投げる無骨な人、なんというか、「唯物論者」っぽい気がする(この言い方は適当じゃないだろうけど)。同じくイギリス人の監督ということで、この映画を観ている間、ずっと頭にあったのが、男がファム・ファタールの亡霊=ファントムに幻惑されるというプロットがそっくりなヒッチコックの「めまい」だった。
モルが何かやらかすたび、僕は映画館で不謹慎な笑いを噛み締めていたのだけれど、潜在意識だかイドの怪物だかがセルフコントロールを失って現実(「インセプション」では夢)を浸食していくという、フィリップ・K・ディック的な現実崩壊感覚のトラジコミカルな様相を、ノーランはうまくキャラクタライゼーションとして映画に落とし込んでいる。スラヴォイ・ジジェクだったら、夢が階層構造になってるという、この精神分析ホイホイな映画をどう解説するのか、興味深い(*1)。
ノーランの処女作「メメント」のアイディアは画期的だったけど、主人公が選択する運命の分岐をイーブンに均等の配分で演出することで、「それってどっちに転んでも同じじゃない? つまりは、なんでもアリなのでわ?」という構造的な弱点を抱えていた。仮想現実をゲームのように描いたクローネンバーグの「イグジステンズ」と同じ陥穽にハマっていたというか。「マトリックス」シリーズは、あらかじめ設計された仮想現実内でしか自由を行使しえないという鋭い批評性が、ヒーローの全能感や自己肯定にスリ寄るうちに消えてしまい、つまらなくなってしまった。
不自由な現実に対する自由なフィクションの優位性は、なんでもアリになってしまった途端にその魅力を失効してしまう。これは現実なのか夢なのかという、(町山智浩が「インセプション」について語った言葉を借りれば)「無限後退」していく悪夢のような後味の悪さは、物語はいくらでも何度でもリセットして再生産できるという留保とワンセットなので、本来的に気持ち悪いのだ。
「インセプション」では、先行する諸作品のこうした欠点を、1つは映画内にルールを設けてなんでもアリな自由を制御・制限することで、もう1つはトラウマを克服するという、それ自体はありきたりで古典的だがエモーショナルなドラマを中心に据えることで、クリアしているように思う。コブは自ら作り上げた居心地のいい夢の牢獄、まさにアーキテクチャに自分を縛りつけている幻影に対峙しケリをつける。これは「ゲド戦記」のモダンなヴァージョンにも思える。
コブは自分を現実につなぎとめる唯一の依り代だった子供を取り戻す代償として、モルを失う。映画を通じて、コブは変化し成長し、彼の選択した分岐が意味を持つことが明らかになる。ラスト、自宅の居間で一瞬「??」と怪訝そうな顔をしたコブが、コマが回り続けるかどうかを確認せず子供が待つ庭に向かうのは、分岐による結末がどうであろうと、それを引き受けるという意志の現れだろう(*2)。
この映画のスッキリした後味のよさは、夢や仮想現実を扱ってきた先行作品の後味の悪さを批判的に継承して交通整理できたからこそ生まれたものだ。結果としてハリウッド製エンタメの枠内に収まる家族の神話という倫理コードに添った形になってはいるけれど。この作品の面白さと表裏一体の退屈さは、「マトリックス」が公開された10年前と比べても、仮想現実のありようがより日常レベルに取り込まれたフェーズに入っていることの証明でもあり、エンタメが今後この(各人に最適化され島宇宙化した)新しいリアリティを描くことの困難を、計らずも示していると見ることもできる。
ピカレクス・ロマンだった「ダークナイト」とは逆のヴェクトルで、2010年代に作られるべくして作られたこの作品で、僕の中でノーランはフィンチャーと並んでメジャーグラウンドでチャレンジングなことをやってくれる楽しみな人になった(*3)。
雑感。「バットマン・ビギンズ」のときはヒドかった、なにかとムラのあるノーランのアクション演出。今回も雪山の戦いでは誰が何をやってるのかよくわからず、スリルのなさがちょっと異常。あそこを大幅にカットすれば、もっと締まったんじゃないかと思った。逆に、雪山と同時進行する無重力のホテルでのシークエンスは素晴らしく(メイキング映像を観ると、ポスト・プロダクションに頼らない、かなり大掛かりなセットを組んでいて、それがあのリアリティを生み出している)、渡辺謙の額のあたりに血球が浮かんでるカットは、個人的に本作のベストショット。
*1=春頃に観た「スラヴォイ・ジジェクによる倒錯的映画ガイド」は、ジジェク本人がシリアスに映画を語れば語るほどコメディになっていくという、パラドキシカルな怪作だった。
*2=このジャンルの先駆者として誰もが認める押井守だが、彼は「スカイ・クロラ」でも無限後退する閉じた世界という美学にこだわるあまり、主人公のベタな成長を描くことができなかった。
*3=この2人はキューブリックの継承者ということでも似ていると思う。
2010/07/18
愚直に率直に実直にやるということ
この2日ばかりで、「進撃の巨人」という漫画の1・2巻を読みました。普段は漫画喫茶に駆け込むのですが、珍しくこれはちゃんと腰を据えて読みたいと購入し、そして、その予感が間違ってなかった、という幸福な出会いを果たしました。真っすぐに何かに対峙してそれを婉曲的でなく描く(もちろん、そこには時代の要請や作家本人の企みによるネジレや迂回はあるわけですが)、こういうストレートフォワードなアプローチというか表現が、このところつとに気になるしアガります。下に貼った楽曲も、そのストレートさに惹かれてヘビロテしているもの。「進撃の巨人」については、今度ちゃんとレビューします。以下、文章が音楽に浸りつつ書いたのでウワついてますが、そのままアップします。
Flying Lotus - MmmHmm
サンダーキャットのベースの雄弁なフレーズが、この曲を単なるループするトラックから救い出し、ジ・オーブとマーティン・デニーをミックスしたようなPVが、笑っちゃうほど愚直に内的探求の旅へと誘う。マジにドープでスモーカーズ・ディライトだぜとウソぶいても、気づいたら何回もリピートしているプレーンソング。
「It's plain to see for you and me, love. It cannot hide. Just be who you are.」
( あなたとわたしのために率直に愛を理解するということ。隠す必要はない。ただあるがままでいればいい。)
環ROY - Break Boy in the Dream feat.七尾旅人
コム・デ・ギャルソンやプラダの店の前で佇むなんて、それなんて都会のありふれたイメージ?という意地悪な見方は、この気恥ずかしいまでにナイーブで前向きなステートメントの前で消え失せる。「すごくすごいものつくりたくて」。Bボーイズムなんて肩をいからせてないで、身軽になろうよ、と。ロロロによるニカなメロウネスは決して耳新しくはないけど、これでイーノだ、と思う。「Rollin' Rollin'」に続く、バックトゥナインティーズな側面もある、フラットな日常生活から生まれた等身大のラップと歌。
Autechre - Lowride
最後は古い曲でごめんなさい。いまのオウテカしか知らない人がこれをブラインドで聴いてオウテカとわかるかどうか。「Summer Madness」を丸々サンプリングした、いかにも90年代半ばだよなぁというザックリとしたトラック・メイキング。刻んでナンボの昨今のEDIT界隈から見ると、「素材そのままを味わってください」と言うシンプル・レシピが「こねくりまわすのもいいけど、これでいいんじゃね?」的に耳元でエクスキューズしたり、しなかったり。
Feed@Sign外苑前
2010.07.18 19:00 - 23:00
Sound: Kid Neri, CONV2U, EDM, Eucalypso
Charge: Free
*カフェの通常営業時間内に音楽をかけていますので飲食代はかかります。
Flying Lotus - MmmHmm
サンダーキャットのベースの雄弁なフレーズが、この曲を単なるループするトラックから救い出し、ジ・オーブとマーティン・デニーをミックスしたようなPVが、笑っちゃうほど愚直に内的探求の旅へと誘う。マジにドープでスモーカーズ・ディライトだぜとウソぶいても、気づいたら何回もリピートしているプレーンソング。
「It's plain to see for you and me, love. It cannot hide. Just be who you are.」
( あなたとわたしのために率直に愛を理解するということ。隠す必要はない。ただあるがままでいればいい。)
環ROY - Break Boy in the Dream feat.七尾旅人
コム・デ・ギャルソンやプラダの店の前で佇むなんて、それなんて都会のありふれたイメージ?という意地悪な見方は、この気恥ずかしいまでにナイーブで前向きなステートメントの前で消え失せる。「すごくすごいものつくりたくて」。Bボーイズムなんて肩をいからせてないで、身軽になろうよ、と。ロロロによるニカなメロウネスは決して耳新しくはないけど、これでイーノだ、と思う。「Rollin' Rollin'」に続く、バックトゥナインティーズな側面もある、フラットな日常生活から生まれた等身大のラップと歌。
Autechre - Lowride
最後は古い曲でごめんなさい。いまのオウテカしか知らない人がこれをブラインドで聴いてオウテカとわかるかどうか。「Summer Madness」を丸々サンプリングした、いかにも90年代半ばだよなぁというザックリとしたトラック・メイキング。刻んでナンボの昨今のEDIT界隈から見ると、「素材そのままを味わってください」と言うシンプル・レシピが「こねくりまわすのもいいけど、これでいいんじゃね?」的に耳元でエクスキューズしたり、しなかったり。
Feed@Sign外苑前
2010.07.18 19:00 - 23:00
Sound: Kid Neri, CONV2U, EDM, Eucalypso
Charge: Free
*カフェの通常営業時間内に音楽をかけていますので飲食代はかかります。
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