2005/12/12
誰も知らない
誰も知らない: 是枝裕和
「誰も知らない」をいまさらながらようやく観た。
良かった点は、子供の演技が自然であること。柳楽優弥が各所で見せるたぶんテレから来る微笑みは、彼自身が「映画を撮られている」という無意識の意識から出ているのだろう。これは誰かがカメラの前で誰かを演じているということを真摯に伝えるドキュメントでもある。次男のしげる役の男の子がもっとも天衣無縫でコントロールされない子供を地で演じている。ラストの交差点で子供らが立ち止まり、彼がオノマトペのように言葉にならない言葉を発する。あそこはよく撮れたなぁ。前もって台本を渡さず現場で指示していくヌーベルヴァーグ的手法はほとんどの場面で成功しているが、同時にそれは諸刃の刃。後半、どうしてもドラマを盛り上げなくてはいけない下りで、台詞の棒読みというか「しゃべらせられてる」感が浮き上がってしまう。
この映画のモデルとなった西巣鴨子供置き去り事件は映画よりずっと陰惨で悲しい事件だ。これをそのまま映画化すればよりハードコアなテイストになっただろうけど、是枝監督はそうしなかった。子供を置き去りにした母親や母親を捨てた父親を悪人として描かない、子供らに待ち構える運命も示唆するだけで明示しない。映画の中では社会的に罰せられるべき人は誰もいない。この小さな共同体は最悪最低の状況なのかもしれないが、そこにすら小さな幸福があり日常がある。一般常識や道徳観念や社会通念をすべて取っ払い、意味性やメッセージがないクリーンなスクリーンを通してそこで何が起こるかをじっと見つめる。
結果、この映画は一種のロスト・パラダイスを延々と映し出す。一歩足を踏み出せば、ツライ現実が待ち構えている。登場人物の誰もそこから出ようとしない。甘美で閉ざされたマンションの半径何メートルの生活圏から。完全に閉じた世界は現実には成立しない。そこには、大人たち、柳楽優弥が家に連れてくる友達、登校拒否の女の子と、外界から侵入者が次々現れる。いつかは破られる閉じたコミュニティの危うさは通奏低音としてずっと鳴っているけれど、それをサスペンスとして是枝監督は用いない。彼の視線は、この歓迎されない小さなコミュニティを糾弾したり告発したり問題提起をすることには向けられてないからだ。ただただ、その甘美な時間が永遠に続くことを願うかのように、淡々とフィルムを回し続ける。
だから、この映画を観る人が感じる一種独特な気まずさや居心地悪さは、もろく儚い小さな生命体のようなモラトリアム空間をひたすら見つけ続けることそれ自体から来ているのだろう。
是枝監督の映画は小津とよく比較されるようだ。僕はこの映画は小津とはまったく似てないと思った。小津の映画は、もっと構築的でコンストラクティブ、淡々としてるようで、繰り返しやパターンは意図的に用いられ、少しづつ変奏しながら、太いドラマツルギーを編んでいく。「誰も知らない」には、このような厳格なクラシック音楽のような構築性をほとんど感じない。それは、ドキュメンタリーのような作り方のせいでもあるだろう。この映画は「意図すべからざる瞬間」をとらえようとする開放系の映画なので、ガチガチした構成は似合わない。例えば、羽田空港対岸に行くこの映画の重要な場面、小津であれば、モノレールで現地に向う場面と現地から戻る場面をしつこく同じ構図で同じショットで入れると思う。是枝監督はそうはしない。
映画館ではなくDVDで観たせいもあるだろうが、2時間半はやや冗長な感じがした。これを2時間に凝縮したら、もっとエッセンシャルな映画になった気がする。ただ、それは是枝監督の意図ではなかったのだろう。ここに消し難く刻印された日本の現実、日本的な微細な感情表現、それらはあまりに「素」でそのままなので、肯定も否定もできない。日本の普通の街(早稲田や高田馬場あたり?)、コンビニや公園を中心に出来上がる子供の生態系、羽田空港を向こう岸に見据える空き地(僕は半年前に城南島を実際に訪れたので「あ」と思った)、現実そのものの、特に美しくもない、むしろ薄汚く物悲しい表情。
僕はこの映画に流れる叙情性を肯定も否定もしない。ああ、これは日本の「素」なのだと思う。そこにグローバリズムが生む世界とは真逆の、翻訳不可能の地域性、ローカルな特質が表象されていると思う。グローバリズムに圧しつぶされていく世界のそこかしこに、こんな空間がいっぱい残されているハズなのだ。
ゴンチチのテーマ音楽、コンビニ店員として出演しているタテタカコの挿入歌「宝石」が素晴らしい。